「っ、ざまあ、ねえな」 「しっかりなさいませ」 青い装束には、赤い染みが浮かんでいる。その上に、龍の片手と、右目の両手が重ねられている。 それが気休めの延命でしかないことには薄々気づいていた。 でも手に込められたままの力は、ついにその時がくるまで緩めることができないだろうということを知っていた。 龍の表情の機微までもを捉えようと、目が凝らされている。 龍の呼吸男さえも聞き逃さぬよう、耳が澄まされている。 いまこの時を忘れないためか、やけに戦のにおいが鼻につく。 龍の体温を忘れないためか、流れるものの脈を感じるほどに神経がたっている そして、余計なことを考えてしまうほどに、思考が冴えている。 なにをした訳でもないというのに、五感が気味が悪いほどに研ぎ澄まされているのが分かる。 意思に反して、身体は目の前の龍を思い出にするための準備をしているようで、許せなかった。 「止めろ、小十郎」 「なりません」 「平気だ」 「聞こえません」 「ガキか、お前」 「申し訳、ございません」 まるでいつもと逆ではないか。そう考えてから、今日とは逆のやりとりを随分と前にしたことを思い出した。 残暑の厳しい夏、まだ龍が、ひとつ前の名前で呼ばれていた時だった。 庭に出て、蝉を見たい、といった龍のために、大きな声で鳴くツクツクボウシを目指して庭で一番大きな木に登った。 だがあと少し、と歩を進めた時、前日の雨で湿っていた枝で滑り、落下してしまった。 気配に敏感なツクツクボウシは、そのせいで飛び去ってしまったし、そのことに気をとられていたために受け身が遅れ、額を切ってしまった。 とんだ無様を晒したものだ、と謝るべく龍を向くと、龍はこちらを向いて青い顔をして立ち尽くしていた。 そしてこちらが口を開くよりも先に駆け寄って、泣いて謝りながら、血が流れる右目の額を手で押さえた。 「ご、めんなさい」 「梵天丸さま、私は大丈夫ですから」 「でも、血が…ごめん、なさっ」 「どうかおやめください、あなたさまの着物が汚れてしまう」 「そんなの、きこえない」 言って泣きながら、震えるその手に込めた力を緩めようとしなかった。 庭で繰り広げられるやりとりの少し上で、場所を変えたツクツクボウシが、また鳴きはじめていた。 「…小十郎」 「はい」 「お前にも聞こえるか。神無月の終わりに蝉がないてやがる」 「しかと」 「しかもツクツクボウシだ」 「ひどく懐かしく感じます」 「奇遇だな、俺もだ」 そう言って笑う龍の唇は、色を失いはじめていた。 もうすぐ木枯らしの吹く季節だというのに、いよいよ終わりの近づくやりとりの上で、あの日より少し背の低い木からツクツクボウシの鳴く声が聞こえた。 それはまるで、龍を迎えようとする天からの、ささやかな奇跡のようであった。 だが、それはまるで、龍を少しでも長く引き止めようとする右目の足掻きを嘲笑いながら、世界までもが龍を思い出にする準備をしているかのようで、許せなかった。 ** 「旦那、聞こえる?」 「ツクツクボウシ、だな」 「こんな寒いのによくやるよまったく」 縁側で、部屋に活けるのであろう花を切り揃えていた忍が、その手を止めた。 せっかちなのか、寝坊をしたのか、山の動物が冬籠もりの準備を始めるような季節だ。 当然ながら、鳴き声に応えるものはない。 「またどうしてこの時期に。番いもできぬだろうに。」 「本当にお馬鹿さんだよ。何年も何年も土のしたで蓄えてきた命だったろうに。」 声のする方に顔を向けて、直して、忍はまた花を切る手を動かし始めた。 一度だけ、まだ日も登り切らぬ時に、忍に連れられ、蝉が羽を生やす瞬間を見たことがある。 穏やかな光りにうっすらと緑がかった身体を輝かせ、少しずつ、少しずつ見慣れた姿へと変わって行く姿にただ見とれた ―こいつはね、弁丸さまが生まれたのと同じくらいに生を受けたんだ。長い間土の下で準備をして、最後の14日ばかしををめいっぱいに生きるために出てきたんだよ。 蝉が姿を変えていく時間を、気の遠くなるように長いものだと感じた己に忍が言った言葉だった。 「そろそろ木枯らしも吹くというが、あいつは14日ばかりを生きれるだろうか」 「生きられないだろうね」 与えられた生の上限を生きることすら叶わない、いつ切れるかも分からない命 そうだというのに、足掻いて足掻いて、きっとこのツクツクボウシは、場所をかえ場所をかえしながら、仲間を求めて鳴き続けるのだろう。 だがそれで何をか得んや、である。 なんとなく思っただけであるが、忍はどこかツクツクボウシに己の孤独を重ねているようであった。 確かに、健気に鳴き続けるツクツクボウシの姿には、己でさえ哀れみを覚えた。 「なんのために生まれたんだろうね、あいつ」 「さあな」 特異な生き方をするツクツクボウシを、普遍でしか捉えることができない己らには、その答えはきっと分からないままだろう タイトルは、ダーヴィンがとある島で見つけたっていう ひとりぼっちで生きていたカメの呼称から |