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□踏み入れた先に
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前川邸の裏庭にある井戸の前。
水が跳ねる、涼しげな音に誘われて踏み入れた所に彼女が居た。

「ゆきむ………ら」


洗濯の途中なのか大きな樽の前で、しゃがみこむ。
しかし背筋がいつになく丸く、影を落としているような気がした。


彼女を呼ぶ声を飲み、ぐっとその場に俺は立ち尽くす。

(いま声を掛けて、気の利いた言葉を言えるのか)

袖を縛り、跳ね返る水が彼女の白い二の腕に滴り落ちる。
そして微かに伺えた横顔からは、汗か涙か。どちらにせよ塩水には変わらない、彼女の体から出る苦労の水が輝いた。

(泣いていたなら訳を聞いて頭を撫でてやるべきか。汗なら洗濯を手伝って……いや、代わってやるべきか)

蝉の音が何処か遠く感じる意識の中、俺はいつまでも‘一歩’は踏み入れられずにいる。

あれやこれやと思考を回すのは簡単な事だが、その間、時間と千鶴は待ってはくれないだろう。否、千鶴ではなく周囲の人間と言うべきか。



「…………結局、俺は」




自分が行ってやるべき位置に、いつの間にか寄り添っているのは局長と同じ結方をした総司の姿。
大きな樽を目の前に、袖を上げ一緒に手を沈ませている。


そして

水の滴った指先で、彼女の頬に伝う水を優しく拭っていた。




「俺は、何もしてやれない」



愛しく微笑みかける総司の横顔
目尻を赤く染めながら笑う、千鶴。


何もしてやれないではなく
何もしてない、だけではないのか?



己の中で渦巻きはじめた感情は、どうにもまだ受け止められない。

その場から逃げるような踵を返したその黒い後ろ姿は、前に座る彼の瞳に映っていた。



















「本当に、君は臆病者だね」











逃げる背中に掛けた言葉は
誰にも聞こえてはいなかった。













踏み入れた先に、満足する結果を得られるのだろうか。


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