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□むらさきのひと
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秋晴れの夜空が澄んだ空気と乾いた風を運んでくる、肌に当たるそれがよりいっそう冷たく感じ、先程までの気分の高揚を無言で諫めているそのような心地がして、彼はふっと小さな溜め息をはいた。彼は美しく逆立ち独特のフォルムを造り出す豊かな萌黄を惜しげもなく風の波に揺らめかせ、歩道を歩いていた。星々の光だけが夜空を占める彼が生きる世界とは違い、ここでは邪念のように小賢しい灯りばかりが輝いている、"美しくない"と一蹴すればそれまでなのだが、歩道の植栽街路樹の落ち葉が歩を進めるたびに、じゃりっじゃりっと鳴くように、彼の瞳に写るこの光景が彼の心を占める何かを揶揄しているかのようであった。



彼は気が遠くなるほどの年月をたった一人、張り詰めた緊張感と譲れない信念とともに生きたはずだった。そう確かに"生きた"はずだった、しかし遣える神の心尽くしの救済により、予期せぬ今生を今再び生きねばならぬこととなったのだ。幸か不幸かそれは"わからぬ"だが、その手に抱き続けること敵わなかった赤子の女神が美しく成長していく姿をこの眼でしかと見ることができるのだから、それもそれでよしとせねば…と彼は見目には不相応な薹が立った笑みをうかべた。断言せずとも彼は女神には甘い、それこそ互いの容姿は十代の若者であり側におれば事情を知らぬものにとっては似合いの恋人のようにも見えるだろう。だか彼の中身は二百数十もの年月を生き抜いた猛者であり、女神に抱く感情は遣える主と言うよりは庇護者の慈しみそのものであった。二百数十年の年月の大部分を彼の生きる世界の頂点として君臨し続けていた彼は、予期せぬ生を再び与えられてからは彼らの中の誰よりも順応能力に優れていた。荒廃した聖域が復興した今において、後任にその座を継承させた今だから、その世界の誰の目にも彼が有意義に今生を謳歌しているように写っているだろう、ただ一つの悪い癖を披露せぬ限りは。
彼の"悪い癖"というのは、特殊体質とも言えるだろうが、それは彼が"もの"に触れるとその"もの"に遺されている記憶というものが見えてしまうということに起因する。気まぐれでそれを遮断せずに内側へ流れ込むことを拒まないことがある、という故意に悪趣味な性癖だ。見ず知らずの人間の意識が勝手に流れ込んでくるのだから、普通はごめん被る能力のはずだが、そこはそれこの御仁にかかれば、「ちょっとテレビで劇画をみたよ」レベルの話ですまされてしまう。制御できるはずのこの能力を時に気まぐれで垂れ流しにするのは、彼のちょっとした人やものへの興味に他ならない。それを知っている弟子などは「悪趣味な…」と非難するが、彼らが扱う聖衣というものに比べれば一般社会における他人の記憶など、たかが知れていると、彼はそう思っている。だから先程から少し気持ちが高ぶっているのは触れた"もの"の記憶を覗き視たせいである。彼が触れたのは本来は女性の指にあるべきはずのエンゲージリングと呼ばれるそれだった。驚くべきことは彼はそれを道端で拾ったのだ、元の持ち主は不運にそれを落としてしまったのかもしれないし、或いは故意に捨てたのかもしれない。理由はどうであれ、彼の興味は沸いた、だから記憶をわざと視た、少し覗いたらますます心を惹かれた。



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