長編小説

□Stranger Boy
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■序

 その日は、確かに何かが変だった。
 設定していたはずのアラームが鳴らなかったことから始まり、しまったはずの自転車の鍵は行方不明で、購買では目の前でパンが売り切れ、掃除の時間には水をかぶって制服を脱ぐ羽目になった。
 運の悪い日だってあるだろう。そう開き直ってはみたものの、得意なはずのバスケットボールさえ調子が悪く、挙句の果てにバッシュが滑って顔面を床に打ち付けたので、見かねた部長の制止の声が響き渡った。

 駅から徒歩15分。大型のショッピングモールへと変貌しつつある商店街を抜け、住宅街へ入った先に、珊瑚礁のようなナイルブルーの高く尖った屋根が目印の高校がある。
 私立惺城学院高校。
 部活動が盛んなことで有名なこの学校の、体育館。男子バスケットボール部の部員達はミニゲームを中断して、コートの中で鼻を押さえる少年に視線を向けた。
 黒崎雄飛。この学校の2年生でバスケ部のエースだ。
「雄飛! 大丈夫?」
 痛みで涙目になった雄飛を心配して駆け寄ってきたのは、中学校からの親友、泉暁(いずみ あきら)だ。
 後ろから同じように駆け寄って来た部長が「保健室に行くか」と訊いてきたので、雄飛は心配無用と言わんばかりに首を横に振って、立ち上がった。
「大丈夫です。先輩」
「そうは言ってもなんだか今日はキレも無いし、体調でも悪いんじゃないのか? ちょうどいいから一旦休憩にしよう」
 雄飛の返事を聞くことなく、部長が休憩の号令をかける。それと同時に部員達は少し力を抜いたような表情になって、各々自由に動き出した。雄飛のもとには他の同級生達もやって来て、お前らしくないなと鼻の赤い雄飛を見て笑う。マネージャーが持ってきた濡れタオルを顔に当てて、雄飛は仲間に応えるように愛想笑いを浮かべた。
 結局、雄飛の不調はその後も回復することは無く、最終下校時刻が近付いた時間になってようやく、全員のノルマであるシュート本数を達成したのだった。
「本当に雄飛らしくないよ。何かあったの?」
 部室の鍵を預かり、片付けをしていた時、一緒にボールを拾っていた暁にそう問われた。
「俺にもさっぱり。体調だって別に悪くないし……。鼻は痛いけど」
「こういう日もあるんだろうけど、それにしたって今日の雄飛は悲惨だよ。何か悪いことでもしたんじゃないの? ほら、よくあるでしょ。お地蔵様の供物を盗んだとか、怪しい御札をはがしちゃったとか」
「……なんでそうオカルトな方向に考えるんだよ。俺は何もしてないし、大体うちの近所にはお地蔵さんも変な御札も無い」
 片付けもそろそろ終わる。夕陽が差し込み、オレンジ色に染まる体育館の中には二人の姿しかなく、部室の並ぶ別棟から、他の部の気配を感じるだけだ。
 雄飛は最後の一個を拾い上げると、今日の不運続きを思い起こし、天井から下がっているゴールを見上げた。エースとしても、この不調は早々に解決しなければならない。「これが入ったら、もう大丈夫だ」と願掛けのように呟いて、頭の前にボールを構える。
 重くなったボールかごを押していた暁は、聞こえた声に顔を上げた。シュートモーションに入った雄飛の姿に、思わずぼうっと魅入る。
 艶のある青みがかった黒髪。整った鼻梁に、すらりとした体躯。深い藍色の瞳はまるで宝石のようで、今も夕陽に反射して煌めいて見える。
 羨ましい、と何度思ったことか。
 色素が薄く、小さな頃から少女と間違われてきたような自分とは違う。目の前のこんな些細な動作だって、彼だから様になるのだ。
 雄飛の手から放たれたボールが放物線を描く。いつもなら、吸い込まれるようにゴールが決まる。
「……あらら」
「……最悪だ」
 だが、ボールは見事にバックボードを超えて、その先にあるステージへとバウンドして消えていった。見事な大暴投だ。雄飛は肩を落としてステージへと向かい、ボールを探しに行った。
「元気出しなよ雄飛。今日は色々あったから、きっと疲れてるんだよ。帰ってご飯食べて寝て、明日になれば元通りだって」
 ステージ上でボールを探している雄飛を追い、暁が壇上に腕を乗せて覗き込む。雄飛は端に転がっていたバスケットボールを持ち上げて、友の言葉に頷いた。夏休みに入れば合宿もある。不調が続くようなら、その時に自分の練習方法を見直してみればいい。
「そうだな。腹も減ったし、帰ろうか。練習付き合ってくれてありがとな、暁」
「どういたしまして」
 雄飛はステージから降りようとして、ふと、脇にある巨大な鏡の存在に気が付いた。随分昔の代物なのか、鏡の下部には掠れた金の文字で“第……代卒業生 贈”と刻まれている。
 こんな裏側に鏡があって、一体誰が使うのだろうか。そういえば校舎の階段の踊り場にも似たような鏡がある。卒業生というのは、何故鏡ばかりを記念品として残していくのだろう。
「どうしたの?」
「いや、こんな所にこんな大きい鏡があったんだなって」
「あぁ、演劇部とかが重宝しているみたいだよ。他の部活の子達も、そこでたまに自分のフォームの確認とかしてるしね」
「……へぇ」
 人が三人並んでも余裕で全身が映る大きさだ。鏡に映る自分は当然真っ直ぐに雄飛自身を見返していて、その表情はいつもより少し、元気が無い。
「…………」
 空いた窓から、ヒグラシの鳴き声が聞こえている。どこか哀愁を誘うその声に紛れるように、最終下校を知らせるチャイムの音が鳴り響いた。午後6時半だ。
 ステージの上は少し薄暗い。夕陽は斜めに差し込んでいて、鏡を見つめる雄飛の顔に濃い影を作っている。光の当たらない背後はまるで闇夜のように真っ暗で、思わずふるりと身体が震えた。
「雄飛? 帰らないの? 窓も全部閉めなきゃいけないし、早くやっちゃおう」
「あ、あぁ……。今行く……」
 暑さのせいだろうか。
 踏み出した足がふらついて、思わず鏡に手をついた。
 不意に聞こえたボールが床を打つ音に、暁は不思議そうに振り向いて再び壇上を覗き込んだ。
「雄飛?」
 蒸した風が、体育館の中に勢いよく入り込んでくる。ヒグラシの声が一瞬だけ大きく聞こえて、チャイムの音がぼやけるように遠のいた。
 たった今までそこにいた親友の姿が無い。暁は怪訝な表情を浮かべて、自らもステージへと乗り上がった。雄飛が持っていたボールは目の前に転がっている。
「どうしたの? ふざけてないで出てきなよ〜」
 呆れた口調でステージ裏を歩き回る。式典で使用される機材や小さな階段があるだけのステージ裏に、何故だか人の気配が無い。隠れているとしても、他に探す場所が無かった。
 妙な胸騒ぎを感じながら、落ちているボールを拾って、先程まで雄飛がいた鏡の前まで戻る。
 視線を向けた鏡が一瞬だけ揺らいだような気がして、暁は思わず手を伸ばした。
「まさかね……?」
 指先で触れた鏡面は、硬い。チャイムもとうに鳴り終わって、静かで薄暗いステージ裏にたった一人でいることに、冷たい汗が吹き出した。
 逃げるように床に降りて、もう一度親友の名を呼ぶ。返事は無く、物音の一つもしない。もしかしたら隙をついて、こっそり部室に逃げたのかもしれない。そう思って別棟の部室に走ったが、蒸し暑いそこにも雄飛の姿は無かった。他の部員はすでに帰宅し、ただ雑然とした部室の風景が広がるだけだ。
 一瞬呆然とするも、暁は慌てて自分のロッカーに走り寄ると、バッグから携帯電話を取り出して雄飛の番号にかける。くぐもったようなバイブ音は、すぐ隣のロッカーから聞こえていた。
「…………」
 部室を飛び出して、体育館内を探し回る。まるで内側から勢いよく殴られているかのように、心臓が激しく脈打って痛い。
 今日の雄飛は、確かに変だった。いつもはカチリとはまっているはずの、雄飛と彼自身を取り巻く環境が、どこかズレてしまっているように。
 他の部員もそうだ。いつもはもっとまばらに残っていて、部長が「さっさと片付けろ」と声を上げるのが常なのに、今日だけはやけに皆帰る準備が早い。
 偶然といえばそれまで。けれど、どこか不安が混ざる。
 結局暁は、再びステージ裏に戻ってきていた。
 今行く、と言っておきながら忽然と姿を消した雄飛が、最後に見たであろう物。古く大きな鏡を前に、暁は悄然とした声で呟いた。
「雄飛。どこ行っちゃったんだよ……。お願いだから、出てきて」
 自分でもおかしな事を口にしていると思う。雄飛にも、きっとまた「オカルトな話に持っていくな」と笑われるだろう。けれど、もうこれしか考えられない。度の過ぎた隠れんぼでも、ましてや誘拐でもない。
 雄飛は消えてしまったのだ。忽然と、この世界から。
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