長編小説

□深縹の戦旗【下】
36ページ/112ページ


* * * * * * * *

 暁に借りた現金で切符を購入し、雄飛とウィンが向かったのは新宿歌舞伎町だ。
 グレイから直接この街で働いていたと聞いたわけではないが、過去の話や、行方不明者としての取り扱いが新宿の警察署だったことから、雄飛が判断した。
 歌舞伎町に来るのは大学生の時以来だ。しかし、学生時代も来たのは片手で数えるくらいの回数だったので、この街にそこまで詳しいわけではない。
 ホストクラブやキャバクラ、飲み屋や案内所が多く、眩しいくらいのネオンサインがあちこちで光を放っている。夜にこそ賑やかになるこの街では、制服姿の警察官や警ら中のパトカーを見かけることも多かった。
「この中からグレイを見つけるのは至難の業だな……」
 歩きながらウィンがそう呟いた。彼の赤い髪は目立つので、今は量販店で手に入れた黒いキャップを被っている。雄飛は頷いて肯定しつつ、新宿南署への道順を思い出しながら繁華街をひたすら進んだ。男2人で歩いているとスーツ姿の客引きからよく声が掛かる。それを躱しつつ、街を南下していく。
 ウィンは周辺を探りながらも、どこか興味津々といった様子だった。雄飛が初めて主要都市のラキアに来た時のような反応だ。これが観光だったらもっと楽しかったんだろうけど、と嘆息する。風俗店に限らず、ここには美味しい居酒屋やシューティングバーなんかもあるのだ。
 東京は故郷だ。新宿のような繁華街も、有名な寺院や公園も、案内したい場所はたくさんある。何より、もう一度会わせたい人もいる。
 だが、解決するまでは会えない。
(そもそもエイラーンに戻れるかもわからない状態だし、日本に帰ってこれたと手放しでは喜べないよな……)
 そう考えて、ふと雄飛は足を止めた。一歩先まで進んだウィンの服を掴み、前方に見えてきた新宿南署の建物から隠れるように傍の公園に入る。
「大変だ、ウィン。重要な事を忘れてた」
「ど、どうした」
「俺達、日本での身分証明書が無いから……警察署へは行けない」
 この状態で美島警部の所在を聞いても、免許証も保険証も所持していない2人を警察は逆に怪しむだろう。当然、警部の所在も教えてもらえないはずだ。
 現金が無い時点でこの事にも気が付くべきだった、と雄飛は溜息をついた。
 エイラーンでは機動隊として身分はしっかり保証されているし、むしろ有事の際は尋ねる立場にある。だからこそ、当たり前のように警察署へ向かってしまっていた。
 ウィンもそうだったようで、困ったように口元に手を当てている。
「確かに、そうだ。今は警察は避けるべきだな……」
「でもそうすると、他に手がかりが無くなる。どうやってグレイさんを探そう……」
「……そもそも、グレイが向こうへ戻る手段を用意しているかどうかも怪しいよな。あいつの目的が本当に“八代飛鳥”なら、あいつは日本から離れる気は無いんじゃないか?」
「そんな……」
 雄飛が顔を上げると、予想以上に真剣な眼差しのウィンと目が合った。その表情だけで、彼が何を言おうとしているか何となくわかってしまう。
 雄飛は一瞬だけ、ウィンが紡ごうとしている言葉に期待してしまった。だが、それはきっと“最後の手段”だ。
「……、エイラーンへは必ず帰る。そのつもりでいる。でも……俺はお前が傍にいるなら、どこで生きたっていい」
「ウィン……」
 ウィンの右手が、雄飛の頬を撫でた。
「グレイもそう思っているはずだ。飛鳥に対して」
 警察署にほど近いこの場所は、人通りが少ない。公園内にもカップルらしき数人の影があるだけだ。皆相手に夢中でこちらには気づいてさえいないだろう。
「あいつの想いは9年越しだ。飛鳥には絶対に接触するはず。……だが、八代家の人間に良く思われていない事を考えれば、公の場で堂々と姿を出すような事はしないだろう」
「だとしたら、やっぱり誰かの協力がないと無理だ。ただでさえ、グレイさんはこっちじゃ行方不明者扱いで、俺たちと同様に行動にも制限がある……。グレイさんとも飛鳥さんともコンタクトが取れる人物って言ったら、やっぱり警部さんだよな……」
 雄飛が警察署を見上げると、ウィンはしばらく考えてから街の中へ戻ろうと提案した。
 どちらにせよ、警察へは行けない。街中の方がグレイに会える確率も上がるだろう。雄飛はウィンに同意し、賑やかな方へと再び足を踏み出した。
 街をあてもなく徘徊して30分ほど経った頃、落ち着いた店の並ぶ通りへとたどり着いた。店先にキャストの顔写真が並んでいた先程までの界隈とは違い、キャッチの姿もほとんど無い。
「……グレイさんが話していた“響子さん”のお店は、イメージ的にこの辺にありそうだよな」
「確かに。だが、彼女の行方も結局分からずじまいなんだろう。グレイは彼女を探したくても、襲われた飛鳥の事を考えたら……彼女と関わる全ての関係を精算せざるを得なかったはずだ。シジョウって男が別の国で逮捕されても、その部下がまだ日本にいたんじゃ下手なことは出来ないだろうしな」
「そうだな……」
「それより雄飛。今夜はこれ以上動いても収穫が無さそうだし、適当に休んでまた明日の計画を立てよう」
 ウィンが立ち止まる。雄飛はポケットの中にある紙幣を取り出して、手頃なホテルなら泊まれるはずだと答えた。
 ここにはビジネスホテルもラブホテルもたくさんある。歩きがてらに夕食を買い、安いところを探そう、と意見が一致する。
 脇にある店からはスーツ姿の男性客が2人、ほろ酔いの状態で出てきていた。日付を跨ごうという時間だ。忘れていた空腹も蘇り、雄飛の腹が小さく鳴いた。
「――じゃあまた来週来るよ!」
「気をつけてね、タクシー呼ばなくて本当にいいの?」
「大丈夫、大丈夫! ちゃんと電車で帰れるからさ! またね、アカリママ」
「いつもありがとうね」
 女性と、客2人の賑やかな会話が雄飛達の耳にも届く。男性客は上機嫌なまま連れ立って駅方面に向かって行き、店主らしき女性は深く頭を下げて客を見送っていた。茶髪を綺麗に一纏めにした、着物姿の女性だ。
(……“アカリ”)
 雄飛とウィンは顔を見合わせた。グレイの話に出てきた名前と同じだ。グレイが用心棒を務めていた店のキャストの女性が、アカリという名前だった。
 しかし日本では特別珍しい名前ではない。別人の可能性の方が高いが、ウィンが「聞くしかない」と歩を進めた。
「いらっしゃいませ」
 雄飛達に気が付いた女性が、明るい笑顔でそう会釈する。
「失礼、客ではないんです。貴女にお尋ねしたい事がありまして」
「私に? 何でしょう?」
「唐突で申し訳ありませんが、“五十嵐博明”という男をご存知ではないですか?」
 ウィンがその名を口にすると、女性の黒い瞳がパッと見開いたのがわかった。その表情だけで、グレイを知っていると確信できるくらいの驚いた表情だ。
「ご存知なんですね」
「あの、あなた方は……?」
「俺は黒崎雄飛といいます。彼はウィン。俺達は博明さんの知人で、彼を探しているんです」
 雄飛がそう続けると、女性は微かに苦笑を浮かべ、首を横に振った。
「いつの知り合いかは存じませんが、ヒロアキはもうずーっと行方不明なんです。警察が探しても見当たらなかった。だから……」
「博明さんは、今日本にいます。恐らく、この街にも来ているはず」
「……え」
「貴女は、“響子さん”のお店で働いていた“アカリさん”ですよね? 全て博明さんに聞きました」
「――――……」
 女性は雄飛とウィンを交互に見て、ドアに掛けていたプレートを“CLOSE”に直し、それから「中へどうぞ」と促した。ドアの横には小さなプレートが取り付けられていて、そこには「小料理 灯里」と書かれている。
 和紙で出来たモダンなランプで照らされた店内は、L字型のカウンター席と酒棚のみのこじんまりとした造りだ。他に客もおらず、雄飛とウィンは促されるままに正面の椅子に腰を下ろす。女性は小さな引き出しから名刺を1枚取り出して、2人の目の前に置いた。
「……千瀬灯里(ちせ あかり)です。貴方が言ったように、あの店で働いていた“アカリ”は私よ」
 そして彼女――灯里は、先程の客の後片付けをし始めた。小さな小鉢やビール瓶を器用に運んでカウンターへ戻っていく。
「それで、一体どうして今になってヒロアキの話を? 警察って感じじゃなさそうだけど」
「……俺達は、博明さんと国外で出会ったんです。そこで彼のこれまでの経緯を聞きました」
「…………」
「日本へは同時に来たはずなんですが、見つからないんです。だから、さっき貴女の名前が聞こえて“もしかしたら”……と」
 雄飛はグレイとの出会いから今夜までの流れをおおまかに説明した。言えないことのほうが多く、大分かいつまんで話したが、大筋は間違っていない。灯里は手を止めることなく話を聞いていたが、やがて小さく溜息をこぼして眉根を寄せた。ネイルを施した両手をタオルで拭い、白いエプロンを脱ぐ。
「私にとっては、ヒロアキが生きていることの方が驚きなの。……とっくに死んでいると思ってたから」
「それは……」
「四条はドイツに飛んでから逮捕されたみたいだけど、それを逆恨みするのがあの男よ。塀の中から部下に命じて、自分に恥をかかせ続けたヒロアキについに手をかけたんだって……。あの子を知る人は、みんなそう思ってた。ただ、あの警察のおじさんと八代君本人だけは、ヒロアキは生きていると信じてこの辺りをよく探していたみたいだけど、最近じゃ全く姿を見せなくなって」
「…………」
「貴方達もニュースを見た? 八代君、あんなに凄い人になっちゃって。そりゃヒロアキの事も忘れちゃうわよね」
 グレイは、惺城学院の鏡に吸い込まれたのだ。それを目の当たりにした飛鳥は、当然生存を信じて探し回るだろう。だが、あまりにも非現実的な消え方だったゆえに、灯里や他の知り合いには真実を隠して探し続けていたのかもしれない。唯一、美島警部には本当のことを話した可能性もある。だから、警視庁の行方不明者一覧に、未だに載っているのかもしれない。
 灯里は細いタバコに火をつけた。バニラのような香りが漂って、細い煙がダクトに吸い込まれていく。
「……ヒロアキが生きてるって知ったら、響子ママも喜ぶだろうな」
「響子さんは、今は日本に……?」
「それがね、ママも音信不通なのよ。四条が逮捕されたら真っ先にこの街に戻ってくるものだと思っていたけど、あれから音沙汰なしでね。……多分、ママなりのケジメなんだろうとは思うの。だから響子ママがいつ戻ってきてもいいように、私は相変わらずこの街で同じ名前でお店を開いてるってわけ。賢い人だったから、姿は見せなくても情報は色々と知ってそうだし」
「そうですか……」
「それで、私はどうしたらいいの? ヒロアキの居場所なんてわからないわよ」
「美島警部の連絡先を知りませんか?」
「個人的には知らないのよね。あ、でも……あいつなら知ってるかも」
 灯里はスマートフォンを取り出して、何やらメッセージを打ち出した。
 それから30分もしないうちに店のドアが開いて、ライトグレーのスーツを来た男が中に入ってきた。
「どーもアカリさん、こんばんは〜」
「待ってたわ」
「珍しいじゃないですか、アカリさんが斡旋してくれるなんて……。あ、もしかしてこの2人ですか!? イイっすね! 最高!」
「片方は腕を怪我しているみたいだけど、平気でしょ?」
「全然問題ないっすよ〜! 君、ハーフ? 外国の人かな? こっちの黒髪君もイイ感じ。すぐにナンバーワンになれるよ」
「あ、あの……」
 雄飛は呆然としながら灯里を見た。灯里は真っ赤な唇を楽しそうに釣り上げて、「情報料よ」と言った。
「彼ね、ホストクラブのオーナーなの。後は彼に聞いてくれる?」
「なになに? 何の話ですか? あ、御礼はこれくらいでいいですか? 思った以上の上玉なんで、弾んでおきますよ」
 灰色のスーツの男が分厚い財布から裸のまま札束を取り出して、カウンターに置いた。灯里はそれの枚数を確かめて「アンタの店、流行ってんのねぇ」と笑みを浮かべている。そして、善は急げと言わんばかりに雄飛とウィンを外へと促す男の背に向けて、言った。
「その2人ね、ヒロアキの知り合いなんだって。良くしてあげてね。――タクマ」
「…………」
 男の動きが一瞬だけ止まる。しかしすぐに明るい笑みを浮かべて、灯里に頭を下げた。
「それじゃ、責任持ってお預かりしますね。アカリさん」
次へ
前へ  

[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ