長編小説

□深縹の戦旗【下】
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■第16話


 音の波が襲ってくるような感覚だった。
 聞き慣れた言葉、ひっきりなしに行き交う電車の音、巨大なデジタル広告。
 ラキアの街並みと似たようで、全く違う空気。
「……っ」
 嬉しいというより、困惑の方が大きかった。呆然としたまま立っていると、再び交差点の信号の色が変わり、何百人何千人という人の流れが一気に動く。
 ウィンは狼狽える雄飛の腕を掴み、交差点から少し離れた休憩所の近くまで連れて行った。ベンチには人がたくさんいて座れそうにないが、交差点の真ん前に立っているよりはだいぶマシだ。
「大丈夫か、雄飛。……ここは、日本なんだな?」
 ウィンは“前の時間”に一度日本を訪れている。この賑やかな繁華街に来るのは初めてだったが、魔力の気配が全くしない事を考えれば、日本へ来たと思うのが自然だった。
 それに、グレイも言っていた。「一緒に日本へ帰ろう」と。
「……それから、さっきは慌ただしくて言えなかったが、もう声を出せるはずだ。試してみろ、雄飛」
「!」
 雄飛はその言葉でようやくハッと顔を上げて、喉元に触れた。
「……ほ、本当だ。声が出る」
「会場に飛び込んで、この腕輪の抑制効果が解除された時に、お前の喉元に魔力が見えた。あれはハレーの魔力だろう」
「……薬品で潰されていたのかと」
「ただの眠剤か弛緩剤だったんだろうな。どうりで原因が不明なはずだ」
 ハレーは一体何のために、魔力で雄飛の声を封じたのだろうか。
 だが、今はそれよりも考えるべきことがある。
 飛ばされて来た故郷。おそらくは、グレイもここに来ている。
「ウィンが言う通り、ここは日本だ。渋谷っていう、繁華街だよ」
「シブヤ……」
「ウィンが来たことのある俺の家や学校は、ここからは少し離れてるんだ。同じ東京ではあるんだけど」
 そう言いながら雄飛は、ウィンが腰とジーンズの間に挟んでいる銃をそっと抜き取り、自分のウエストケースの中にしまいこんだ。
「ついでに言うと、日本じゃこれを持ってるだけで逮捕されるから預かっておくな」
「あぁ。……それで、どうする。グレイを探すか?」
「探したいけど、それより先に聞いておきたいんだ。グレイさんがハイオンの幹部ってどういうことだ?」
 雄飛がそう言ってウィンを見上げると、ウィンは少しだけバツの悪そうな顔をした。そして、赤の棟や中央棟など、いたるところに盗聴器を仕掛けていたことを白状した。
「――だから俺は、グレイが“五十嵐博明”っていう日本人だってことも、本当は知ってたんだ。黙っていて悪かった」
「それは……、謝ることじゃないだろ。ウィンは捜査のためにそうしただけだ。俺だって、ウィンにその話を黙っていたし……。でも、どうして……」
「あいつが日本人だと知って、しかも警察官を目指していたって話を聞いて……そりゃ俺もあいつは協力者として手を組めるかも知れないと思った。事実、8割はあいつを信頼していた。お前を湖で助けた話も聞いていたしな。だが、どうしても引っかかることがあったんだよ」
「何が引っかかったんだ?」
「グレイに、“ルサールカの正体を確信できる”程度の情報を掴める、“国家機関の友人”がいること。それから、グレイが話した恋人の……“アスカ”の事だ。あいつは、そのアスカって相手への気持ちは封じているとお前に話していたが、どうも……そういう感じはしなかった。グレイはまだ、アスカへの気持ちを諦めてなんかいない。だからクレアにグレイの情報を集め、秘密裏に調べてもらっていた。その結果を、さっき電話で聞いたんだよ」
「――……」
 そう話したウィンの横顔を見つめ、雄飛は視線を交差点に戻した。
 ざわめいた自分の心の中は、目の前の雑踏と同じだ。色んな感情が渦巻いている。
 しかし、ウィンの言葉に妙に納得してしまう部分もあった。
 グレイはアスカへの気持ちを諦めてなんかいない。――だから、雄飛を利用して日本に戻ってきた。
「……俺が何度か日本とエイラーンを行き来していた話をしたから、グレイさんはこんな事を思いついたのかな……」
「いや、どうだろうな。あんな大それた仕掛けを、この短期間で用意するのは難しいようにも思う」
「じゃあ随分前から知っていたのか? 俺のことを?」
「知っていたとしても、雄飛が道を何度も行き来していたのは“前の時間軸”での話だ。グレイにそれを知る術なんかないはずだが……あの試合会場の仕掛けを考えると、知らなかったとも言い切れないな」
 2人は顔を見合わせた。とにかく、グレイを見つけてエイラーンへ戻る方法を探らなくてはならない。
 ただでさえ今頃向こうは大混乱だろう。試合を見ていたはずの兄やラクセルも驚き、何か対策を練ろうとしてくれているはずだ。しかし、こればかりは自分達でどうにかしなければ帰ることが出来ない。
「雄飛、ラクセルからへベルの上空に現れた“道”の写真を見せられただろ?」
 ややあって、何かに気がついたようにウィンがそう言った。
「あぁ。……あ、もしかして」
「そうだ。あれは、このための実験だったのかもしれない。行方不明になったへベルの住民は、実験台にされた可能性がある。……日本へ飛ばされたならともかく、お前の魔力が伴っていない“道”に飲み込まれたんじゃ、どこに落とされたのかはわからないが」
「…………」
「あの現象にハイオンが関わっていたとしたら筋が通る。“道”の行き先が安定しない時に何らかの理由でお前の存在を知って……合法的にあの巨大な実験施設で魔力を使わせようとした」
「……だから、潜入捜査官に選ばれた?」
「有り得ない話じゃない。……もしこれが事実なら、警律省の上層部は穴だらけってことになるが」
「…………」
 あくまでウィンの考えた仮定だ。だが、彼の言う通り“有り得ない話ではない”。
 雄飛は大きな溜息を吐き出して、両手で顔を覆った。
「真相を知りたいし、グレイさんも探したいけど、このままじゃ不便すぎる。こっちのお金も持ってないし、家に帰れば何とかなるかもしれないけど……」
 雄飛は母と姉の顔を思い浮かべた。
 3年前、自分はちゃんと挨拶もせずに再びエイラーンに飛んだのだ。鏡を通る直前にメールだけは送っていたが、その返信は見ていない。突然の連絡に家族は心配したことだろう。
 今更どんな顔をして会えばいいのかわからない。会いたいが、それ以上に2人の反応が怖かった。
 そしてふと、暁のアパートが渋谷から近いことを思い出した。ここからは地下鉄の駅1つ分の距離だ。歩いていけない距離ではない。
「ウィン、暁を覚えてる?」
「勿論。……会ったのは、だいぶ昔の感覚だけどな」
「その暁の家が近いんだ。といっても、3年の間に引っ越してる可能性もあるから、絶対じゃないんだけど……。行ってみるしかないと思う。暁なら、きっと協力してくれる」
「お前がそう言うなら」
 ウィンは小さな笑みを浮かべ、寄りかかっていたポールから腰を離した。雄飛も同じく腰を離し、ウィンの空いた右手に触れて軽く引っ張った。
「――大変な状況だけど、ウィンが一緒で本当に良かった。会場まで来てくれて、ありがとう」
「……当然だろ。もうお前を1人で行かせないってあの時決めたんだからな」
「あの時って?」
「秘密だ」
 渋谷は夜だ。向こうの世界でも夜だった。つまり、やはり以前のような時間の法則は消滅していると考えていい。前の時間軸では、日本では18時半、エイラーンでは10時に鏡を渡るという法則があったのだ。これは暁が見つけた法則だった。彼のおかげで、雄飛はウィンと高校の文化祭を楽しめたし、花火の上がる後夜祭でフェールリングの交換が出来たのだ。
(暁が、まだあのアパートに住んでいますように……)
 そう心の中で祈り、雄飛はウィンの手を握ったまま、道元坂方面に向かって歩きだした。
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