長編小説

□深縹の戦旗【下】
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■第14話

 この薄暗い場所に閉じ込められてから、どのくらい経ったのだろうか。

 朝なのか夜なのかもわからない、常にランプの灯りのみの石造りの部屋。
 リゼは浅い眠りから目を覚まし、長い黒髪を無造作にかきあげながら起き上がった。
 扉の外には何の気配も無い。しかし、いつの間にかテーブルの上には食事が用意されている。あまり深く眠っていたつもりはないのに、中に入ってくる誰かの気配に気が付けないとは――。リゼは眉間に皺を寄せて食事を睨んだが、仕方無しに水の入った瓶を掴んであおった。空腹には逆らえないのだ。
 パンとスープと簡単な副菜が添えられた食事で、ようやく今が午前中なのだとわかる。昼食や夕食はこれよりももう少し豪華なのだ。
 監禁するわりには待遇がいいもんだよな、とも思う。それを手早く食べ、熱いシャワーを浴びる。ドライヤーが無いので髪の毛はタオルで拭って放置しているが、そのせいか最近手触りがあまり良くない。こんなことになるのなら切っておけばよかった。そう後悔しても遅い。
 朝食と一緒に用意されていたのは、白いカットシャツと濃い緑のスラックスだった。いつもはもう少し軽装なのだが……とにかく着るしかない。綺麗にたたまれたシャツの上にはスラックスと同じ色の糸で作られた組紐もある。リゼはそれをしばし眺めて、長い髪をその紐で一つに纏めた。
「準備が出来たら出ておいで。鍵は開けてあるから」
 ベルトを締めたところでドアの外からそう声がかかった。この部屋に監視カメラが設置されているのではないかというタイミングの良さだ。
「うん、いいねぇ似合うじゃない」
 リゼが部屋から出ると、例の白衣の男がいた。かっちりとした服装のリゼを上から下まで眺め、満足そうに頷いている。
 廊下は部屋と同じように暗かったが、1階層分の長い階段を上がると途端に明るくなった。否、今のリゼからすると非常に眩しかった。どうやら今日は随分と良い天気らしい。白衣の男の静止も聞かずに窓の傍まで行き、外を眺める。陽光が暗闇に慣れた瞳を容赦なく襲ったが、霞んだ視界の先で見たこともない景色が広がっていた。
「……ここは、どこだ」
 リゼがそう呟くと、白衣の男が隣に並んで同じように窓の外を眺めた。
「ゼウス大陸。その中心部だ」
「……は?」
 リゼは男を見上げた。白衣の男は「眩しいねェ」と言いながら眼鏡を外して胸ポケットにしまっている。
「お前、今何て……」
「驚くのも無理ないか。エイラーン大国とは随分離れているし」
「…………」
「今は面白い催し物もやってるんだよ。坊ちゃんが許してくれたら、観に行ってみるかい?」
 リゼは、窓枠に掛けていた手を外した。一瞬、この窓から逃げ出してやろうかと考えていたのだ。街中に出てしまえば姿をくらませることも簡単だろうし、どうにかして仲間に連絡を取ることも出来る。
 しかし、もし外に出られるチャンスがあるなら、それを待ったほうがいいだろう。リスクは最小限にしたほうが、逃げ延びる可能性も高くなる。
「おや、逃げなくていいのかい?」
 だが、白衣の男はリゼの考えに気がついていたらしい。窓枠から離れたリゼを見て、そう笑っている。リゼは男をひと睨みして、廊下を歩き出した。
「お前が見逃してくれるなら喜んで出て行くね」
「そりゃ無理なお願いだ。俺も一応仕事なモンで。あ、そこの階段登ってね」
「…………」
 随分と広い建物だ。かつて、自分達が住処にしていた巨大な館を彷彿とさせる。リゼは後ろからのらりくらりと着いてくる白衣の男に言われるまま、前方に見えてきた階段を登った。数十段を登ってやっと次の階が見えてくる。先程までよく磨かれた石の床だったのだが、この階は絨毯張りになっているようだ。
「奥の扉だよ」
「ここにあいつ……、アーレントがいるのか」
「そう。坊ちゃんから君に話があるようだ。でもあの部屋じゃ落ち着いて話せないって言うからさ」
「あいつは、何なんだ?」
 扉は、奥にしかない。廊下には絵画や彫刻が飾られていて、まるで美術館のようだ。だがそれらをゆっくりと眺める余裕は無い。
 リゼが足を止めて振り返ったので、男は少し困ったように顎に手を当てた。
「何って言われてもねぇ。俺の仕えている人としか」
「アーレントはどうして俺と赤刃を結ぼうとしてる?」
「……エイラーンの“吸血鬼一族”ってのはこっちでも有名でね。見た目良し、頭脳良し、魔力も強い。まさに伝説ってわけ。坊ちゃんは、それを知ってから随分と長い間探し続けていたんだ」
「へぇ、じゃああいつには悪いことをしたな。俺の魔力は“弱い”んだぜ。忌み子と言われていたくらいだしな」
 リゼはそう言って、また窓の外を眺めた。先程より少し視界が高く、更に遠くを見渡せる。ゼウスにも近代的な建物は多く見えるが、ラキアよりも空が広い。あの街は、高層ビルやマンションが多いのだ。
「俺をどう利用するつもりかは知らねぇけど、あまり期待されても困るぜ。俺の取り柄といえば薬草学くらいだ。役に立つとは思えないね」
「君は十分素晴らしい存在だよ。だからこそ、彼は君を選んだ」
「……」
「赤刃の契約については、坊ちゃんからも説明があると思うよ」
 白衣の男がニヤリと笑う。「さぁ、行こう」と背中を押された瞬間、煙草の匂いが鼻を掠めた。キャラメルのような甘い匂いだ。リゼはその香りに表情を僅かに歪め、背中の手から逃れるように大股に歩いた。白衣の男は苦笑を浮かべて自らの手を自分の脇に戻す。
「全く、エイラーンの人間ってのは皆こうなのかね」
「何か言ったか?」
「いいや。何でもない」
 重そうな木製の扉が開かれる。先に中に入った白衣の男の後に続くように足を踏み入れると、深い緑のビロードで作られたソファに、あの真っ白い少年がいた。首筋には僅かな噛み跡が残っている。
「やぁ、ご機嫌はいかが?」
「良いとでも言って欲しいのか? 俺も暇じゃないんだ。さっさとラキアへ返してくれねぇかな」
「君がこちらの要求を飲んでくれれば、すぐにでも」
「…………」
 リゼはアーレントの斜め向かいにある1人用のソファへと腰を下ろした。こちらも深緑の生地で出来ている。用意されていたスラックスや髪紐といい、緑が好きなのだろうか。リゼは滑らかなビロードの感触を手で感じながら、足を組んだ。
 アーレントの背後には影のような男が、リゼから少し離れた壁際には白衣の男が立つ。
「その“要求”ってのも、俺ははっきりと聞いてないんだが? お前は勝手に俺と“赤刃の契約”を結ぼうとしただけだ」
「あれは少し強引すぎたね。反省しているよ」
 アーレントが小さく息を吐き出してそう言った。雪を映した鏡のように白く光沢のある瞳に、真っ白な瞼が落ちる。リゼはアーレントの容姿をじっと眺め、それから自分の長い黒髪を一瞥した。
「その白い容姿に関係するんだろ?」
 リゼがそう口にすると、アーレントがすっと視線を上げてリゼを見る。無表情になると、余計に人形のようだ。
「お前は他人から容姿を盗むことが出来る。でもそれは一過性で、時間が経てばその真っ白い姿に元通り」
「…………」
「俺と“赤刃”を結んだところで、俺のこの姿はお前には定着しないと思うぜ」
 リゼの言葉に、面白そうに口の端を上げたのは白衣の男だ。口笛でも鳴らしそうな表情を浮かべたが、何も言わずにリゼとアーレントを見ている。
 アーレントはリゼの紅の瞳を見返して、薄い唇で「何故?」と呟いた。
「どうしてそんなことを?」
「お前を見てりゃすぐわかる。俺の容姿を奪った時も、この前、黒髪の男の容姿を奪った時も……お前はすぐにその白い姿に戻った。それからそこのヒゲがさっき言ってたぜ。見た目も頭も良い吸血鬼の一族のことを、お前はずっと探してたって。頭はともかく、見た目がいいのを探してたんだろ? だとしたら、お前が望んでいることは何となく察しがつく」
「……おしゃべりだね、君は」
「いやぁ、ついね。すみません、坊ちゃん」
「でも、それとこれとは別だ」
 白衣の男を睨んでいたアーレントは、リゼの低い声に視線を戻した。リゼは猫のような瞳でアーレントを見据える。僅かに細くなった瞳孔は、アーレント達の勝手な行動に対する怒りを表しているように見えた。
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