04/15の日記

01:02
頑張る
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世の中は「頑張る」っちゅう言葉が氾濫して居るが、言葉として氾濫してる程、実際の行動としての「頑張る」は氾濫してへん様に想うのだ。
そもそも皆「頑張る」を簡単に遣い過ぎなのである。
頑張るとはつまり今の自分の力量以上を引き出すっちゅう事で、そんな事を早々簡単に誰しもが出来る事でも無いし、言葉で云うと同じ様に簡単に力量以上を引き出せたら、それは元々その人の中にあったであろう力量に成るからなのだ。
判るだろうか?「頑張る」とは今の自分に無い能力を産み出す事で、云わば産みの苦しみを伴うモノなのである、早々簡単に誰しもが言葉で云う様に簡単に「頑張る」を具現化出来るモノでは無い。
よってワシは「頑張る」と云う言葉が嫌いである。勘違いせんで欲しいのは「頑張る」事が嫌いなのでは無く、「頑張る」と云う言葉が嫌いと云う事。
今世の中で遣われてる「頑張る」と云う言葉の殆んどが、遣う(云う)事によってその全てが終わってる様に感じて成らないのだ。
云う事で終わる「頑張る」は「頑張る」では無いし、本来の「頑張る」とは陰で努力してこそ意味があるモンでは無いやろか?
それが今の時代?は「頑張る」と云うだけで満足して終わって、一番大事なその後の行動での「頑張る」が無い事が多い様に想えて仕方が無いのだ。
言葉としての「頑張る」がこれだけ世の中に溢れてて、それと同じだけもし実行されて居るとしたならば、この国はもっとエエ国・民族に成って居るやろう。
「頑張る」は基本的に表に出てエエ言葉では無く、ましてや相槌の様に遣われる言葉でも無い。
本人が不特定多数遣う決意表明の為に云う「頑張る」も、目上の人間が下の人間に対して要求して云う「頑張る(頑張りなさい)」も両方「頑張る」違いやと想うのである。
「頑張る」とは口で云う程楽な作業(行動)では無いし、次から次へと(あれもこれも)連発出来るモノでも無い、本来行うにはとてつも無くハードルが高く疲労感を伴う作業(行動)なのである。
決して世の中に溢れ返ってエエ言葉では無い事を忘れては行けない。

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