□内務省謀議―漬物と豆腐と、時々かけ蕎麦―
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 「武田観柳?」

 小柄な男が眉根をよせて、そう独り言のように呟いた。上司でもあるその男、川路を横目で睨むように見据えて斎藤は小さく首を縦に振った。

 明治六年、地方行政・土木事業・勧業政策など、内政の殆どを取り仕切る省庁が産声を上げた。今や近代国家として生まれ変わろうとしている日本の、その内政の大部分を取り仕切る省庁、それがここ、内務省だった。

 その中でも最も頂きに位置し、今の日本を主導していると言っても過言ではない男が、斎藤のすぐ前の椅子に座っている。しかし何ら気負いすることもなく、斎藤は自分が渡した書き付けに目を通す男を見る。

 剣客としては細身な斎藤と比べるまでもないほど体が薄く、しかし口周りには仰々しいほどの髭を蓄えた男、「維新三傑」の最後の生き残りである薩摩の傑物、大久保利通は静かに視線を上げた。
 
 「武田観柳、か。どこかで聞いたような名だな」

 「ああ、うちを裏切り、あんたのところと通じようとした男がいたな。覚えていたのか」

 あんな小物を、と斎藤の声には嘲るような響きが確かにある。それを咎めようとした川路を制するように大久保は小さな含み笑いを漏らした。

 「ああ、覚えているとも。その末路までも、しっかりな」
 
 そう言われ、斎藤は小さく舌打ちした。かつて、新撰組の五番隊組長を勤めた武田観柳斎という男がいた。甲州流軍学に優れ、一時期は五番隊組長にも抜擢されたが洋式調練が浸透するにつれてその隆盛も色褪せ、ついには敵であった薩摩藩や離反した伊東甲子太郎に通じた人物である。その末路が新撰組内部による粛清であることは勿論のこと、悪即斬の名の下に奴を斬り捨てたのは他でもない斎藤自身であった。

 今まで振るった血刀を恥じたことなどないが、この男にここまで調べあげられているということはあまり気持ちのいいことではない。見透かされている気がして、さしもの斎藤でも背筋に冷たいものが這う。

 「で、その何某がどうした」

 静かな声で先を促す大久保に斎藤はもう一枚、紙を差し出す。撃剣興行、と派手な崩れ字が並ぶそこに小さく付け加えるような文字でしたためられている名前。

 「人斬り…抜刀斎だと!?」

 隣から大久保の手元を覗き込んだ川路が思わず呻いた。そのまま己の配下である男を睨みつける。
 
 「まさか、こんなものを信じたじゃぁあるまいな?」

 斎藤は応えるように喉の奥を鳴らした。明らかな冷笑を浮かべて川路へと視線を移す。

 「まさか。――精々、客引き目当ての嘘八百だろうなと思ってはいたが、嘘が真になる、というのはこういうことを言うのだろうな」

 「現れたのか、緋村が」

 大久保は組んだ手で口許を隠し、呟いた。その表情を伺うことは斎藤にもできず、また小さく眉根を寄せる。肝心な時に感情を隠されては斎藤お得意の洞察力を働かせることもできない。

 「ああ、現れた。だが、各地に飛ばしていた密偵どもの報告通り、その腰にあるのは刃を返した刀」

 「逆刃刀、か。斎藤、お前はどう考える」

 氷のような声音で静かに問われ、斎藤は溜め息を吐き出す。とっくの昔に分かっているだろうに、わざわざ言わせるのだから性質が悪い。

 「実力などたかが知れている。自己満足の似非正義に溺れた偽善者だろう。人斬りが人を斬らずして、どうして人が守れる」

 今はもはや人斬りでない、かつての宿敵。まだ合間見えてはいないが、恐らくかつての何倍も弱くなっただろう剣客。少し離れた壁に背中を預ければ、腰に帯びた愛刀がやけに大きな唾鳴り音を響かせた。
 
 「で、その観柳とやら、一度は拘置所に入れられたらしいが賄賂で出てきたらしい。今は有り金全て使い果たす勢いで裏社会の猛者共をかき集め、打倒抜刀斎を掲げているとか――どうする?」

 斎藤は薄く笑みを浮かべる。聞いてはみたが、大久保の命は一つだろう。大久保は薄灰の目を楽しそうに歪ませた。この大久保という人間は私利私欲に塗れる人間が嫌いなのだ。特に賄賂など言語道断、だからこそこの観柳のやり方が気持ちいいわけもない。こういう時の大久保の笑いは、実に底冷えを呼び起こすほど恐ろしかった。

 「お前ならいくらで雇われる?」

 「さぁね、まぁ折角だ、今の給金の倍は吹っ掛けてやろうか」

 それを聞いて川路が渋面を作った。控えよ、と言いたげだがこの狼がそれしきで止まるとは思っていない。どこか諦めたような顔で内務卿の命を待つ。そんな部下とは対象的に、日本の頂きに立つ男はくつくつと心底楽しそうに笑った。

 「なら雇われて来たまえ。――手土産を期待しているよ」
 
 そう嘯いた大久保に、斎藤は小さく口角を吊り上げる。手土産は観柳の首、裏社会の人間という名の不平分子の情報もしくは殲滅、そして、来るべき大一番に備えての「人斬り」の復活、とこんなところか。任務内容を頭に刻み込み、斎藤は口を開く。

 「密偵使いの荒い男だな、あんたは」

 「なんだ、不服か?」

 「――さぁな」

 不服なら、少なくとも今ここにはいない。そう一人ごちて、腰に回したベルトの右側から下げた刀に指先を滑らせる。幕末からの愛刀、鬼の名をもつそれの出番は刻々と近づいていた。




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