□猛犬注意報
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真川信は斎藤の密偵用長屋の扉を開いた瞬間固まってしまった。

「………何なさってるんです?」

ようやくそう言った。

歴戦をくぐり抜けた百戦錬磨の女剣士でも目の前の状況はすぐに理解できなかった。




遡ること数分。

斎藤はどんどんとうるさく戸を叩く来客のために戸を開いていた。

「……貴様、一体何の用だ?」

貴様とは、目の前の比古清十郎その人のことである。

「何の用だとはひでえじゃねーか」

「うるさい。

俺は貴様に用など無い」

斎藤はにべもなくそう言うと戸を滑らせた。

が、比古は押し売りのセールスマンよろしく斎藤の家の戸をがっと掴むと、にっと笑った。

「まあまあ。

別に茶ぁ出してくれなんて言わねぇからよ」

「朝っぱらから押しかけて来て何をほざくんだこの阿呆が」

斎藤は青筋を浮かべて言った。

そして同時に沖田がいなくてよかったと本気で思った。

沖田は昨日から試衛館に泊まっている。

「何だよ。

顔見るたびに阿呆は酷くねぇか?」

「無いな。

分かったらとっとと帰れ」

そう言って斎藤は戸に掛けた手に力を入れた。

「やだね」

比古も同じく力を込めた。

押し問答が始まった。

が、終わるのは案外あっけなかった。

斎藤が右手一本に力を集中させている間に、比古はちょいと斎藤の身体を押した。

バランスを崩した斎藤は背中から畳に倒れ込み、したたかに頭を打った。

「っつ……貴様何を……!?」

斎藤が言いながら目を開くと、比古が馬乗りになっている。

「……今すぐ退け」

斎藤は地を這う様な声で言った。

「嫌だね。

折角お前を訪ねて京都から出て来たんだ。

駄賃くらい貰っても罰は当たらないだろ?」

比古はちゃっかり戸を閉めるとにやりと笑って言った。

「お門違いだ、余所を当たれ!!」

斎藤は叫ぶ。

が、比古はにやにや笑ったままで。

そんな時。

すっと滑らかな音がして戸が開いた。

斎藤と比古が目を見開いてそれを見ると、硬直しきった信が立っていた。


斎藤は顔を強張らせた。

いくら信が右腕だからと言って押し倒されている光景を見せたい人間ではなかった。

「………何なさってるんです?」

金縛りから解放された信はようやく一言そう言った。

斎藤はその声音の中にひやりとしたものを確かに聞き取った。

十年以上連れ添った上司部下だからこそ分かる違いである。

「何って、見て分からないか?

姉ちゃん案外不粋だな」

比古は微かな冷たさに気付かずに、にやにやとそう言う。

ぴしり。

斎藤の耳には信の額に青筋が立つ音が確かに聞こえた。

(俺のせいじゃない)

斎藤は胸中、ぽつりと呟いた。

この先どうなるのかが容易に想像できる。

そして斎藤の想像通り、信は目にも留まらぬ早業で刀を引き抜くと、ぴたりと比古の首筋に白銀の刃を当てた。

「二秒で斎藤先生の上から退いて下さい。

私の手が滑る前に」

にーっこり笑って信は言った。

「ははっ、悪い冗談はよし」

「冗談って何のことですかね?」

相も変わらぬ笑顔で信は言った。

気のせいだろうか、眼が笑っていない。

そして斎藤にとってはは本気で気のせいだと願いたいことだが、沖田顔負けの真っ黒なオーラが漂っている気がする。

「………」

比古は漸く誰の怒りに触れたのか分かったのだろう。

急いで斎藤の上から退いた。

「ご理解頂きありがとうございます」

信はにっこり笑って刀を鞘に納めた。

そしてそのまま斎藤の目の前でしゃがみ込んだ。

膝を抱え、綺麗に明るく笑って言った。

「おはようございます、斎藤先生」

「……ああ、おはよう」

取り合えず上体を起こしてその漆黒の髪を撫でてやった。

まるで飼い主にじゃれる子犬のように信は笑った。

先程の黒微笑(ブラックスマイル)の持ち主と同一人物とは到底思えない。

この世で怖いことは、沖田を怒らせることと信を敵に回すことだと斎藤は心の底から思った。


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