季節はまだ暑い折であったのに、そこはひどく寒いところだった。

寒いところだと感じるのは、こんな寂しくって恐ろしいところは寒くて然るべきだという思い込み故かもしれなかったけれど。

この廃墟と、その中の、僕の隔離された部屋よりも恐ろしいと僕が思うのは、赤と青の目を持つ美しい、骸という男の人だった。

その人は大抵は含むような微笑を湛えていた。

けれど僕が彼をとりわけ美しいと、そして恐ろしいと思うのは、彼の端正な顔から表情が消え去る瞬間だ。

「ねえ、君にお願いがあるんです」

僕の目線までしゃがみこんで、白い指で僕の頬に触れて、いやに楽しそうに、彼は言った。

手が頬に伸びたその瞬間、僕の脳裏に過ぎったのは、彼のその綺麗な手が、僕と同じようにここに閉じ込めたもう一人の人に対して振るう暴力だった。

本能的に感じた恐怖に思わず後ずさる。ああ、と彼がやはり楽しそうに呟いた。

「そんな顔をしないでください。君と彼は別です」

彼が気まぐれに暴力を与えるその人を、僕は思い浮かべた。

その人を閉じ込めて以来、彼は少し機嫌がいい。

「・・・お願いって、なあに」

思わず唯一の拠り所であった本をぎゅっと握り締める。彼のすべてが恐ろしかった。

彼は僕に拒絶された白い手を引きながら、薄い唇から言葉を漏らした。

「君に、おとぎ話を聞かせてほしいのです」

彼の整った顔立ちと、おとぎ話という響きが、どことなく不釣合いだった。

「・・・おとぎ話?」

僕の目線まで屈んでいた体を起こして、彼は頷いた。

見上げた色違いの両眼は、けれどしっかりと僕を見据えている。ああやっぱりここは寒い。

「ええ、おとぎ話を、教えてください。何だって構いません。君の好きな、話をひとつ」

そのとき僕が思わず自分の目を疑ったのは、彼があんまり寂しそうに微笑んでいるからだった。

人間らしからぬ恐ろしさと艶を秘めた綺麗なふたつの瞳を、まるでいとしいものを見つめるように細めて。

お願いです、再度そう囁く声には縋るような響きさえあった。

彼はきっと何もかも知っているけれど、そのうちのひとつだって完璧には分かっていない、そういう人なのだ。

たとえば、気に入ったあの人を桜で閉じこめて、その中で与える暴力を、蜜月だと錯覚する、それがなによりの証拠だ。

あの人を支配するのは彼だけれど、彼を飼いならすのはあの人だろう。あの人も彼も、それは両方彼の分だと思っているだろうけど。

何かの加減で思いがけずあの人を殺してしまったとき、彼は生きていけるだろうか。

否という答えしか導き出せない僕は、彼があの人よりも先に死ねるように祈った。

僕が彼におとぎ話を聞かせるのは、その祈りが届かなかったときだ。






2010-04-25

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