・死ねた(?)です。たぶん。生々しい表現はまったくありませんが、苦手な方はご注意ください






僕はその時を恐れていた。

彼が僕を愛していると気がついた瞬間から、或いは彼と出会った瞬間からずっと。

それでいて彼に限ってまったくの杞憂であるように思ってもいて、僕はいっそ浅ましいほど極端な楽観と悲観の間をぐるぐるとさまよってこの年月を生

きてきた(彼が老いる様はどうしても想像できなかったので)。

そうして今僕の眼前に繰り広げられている事実は僕の悲観であった。彼は今この上なく美しく見えた。

ああ、だか、はあ、だか、とにかく彼はそんな風な、言葉にならない言葉をため息のように吐き出してから、疲れたよ、と小さく呟いた。

閉じられた瞼が彼の黒い瞳を隠して、代わりに長い睫がひどく目立った。

彼はこの部屋に一脚しかない椅子に腰掛けていて、自然僕は彼の側にただ立ちつくすばかりであった。

彼の瞼はまだ開く気配がなかった。僕はあの黒い瞳が、僕を捉えるのを未だかつてないほど望んでいるのに。

「―僕を、置いていくのですか」

ようやっと搾り出した声に、彼の瞼が緩慢に開かれる。

うん、という短い返答と共に、彼は鷹揚に頷いて、奇妙に青白くなった顔にそっと微笑をうかべた。

「寂しいかい」

僕は彼のその問いに対して完璧な答えを持ち合わせていなかった。

僕には、分からないことがあまりにも多すぎた。

「―いい気味だと、思っているのでしょうね」

「うん」

「―僕は君を置いていきたかった」

「・・・そう」

「そのあとの君の絶望などどうだっていい。僕は・・・僕は、自分が苦しみたくない」

「・・・そう、」

「君は僕を苦しめるのか。絶望の淵に立たせるのか。

・・・置いていくのか、僕を」

「・・・うん」

彼の瞼が静かに閉じられる。それは彼の本意というよりも、衰弱していく体による不可抗力に見えた。

「―ひばり、」

「・・・・・・」

「僕は君を、愛していたのだろうか」

「・・・さあ、」

「・・・僕は花など手向けない」

「・・・そう」

それきり、僕と彼の間には沈黙が横たわった。彼は瞼を開こうとしなかった。けれど僕はまだ彼がここにいることを知っていた。ほとんどなにも分から

ない僕であったけれど、これだけは知っていた。

「―骸、」

不意に彼が気だるげに口を開いて、ゆっくりと言葉を紡いだ。

彼の舌はもう鉛のようであったろう。それでも僕に言葉を投げようと、再び口を開く。

「僕は君を、しあわせにしたかった」

彼は僕を愛していた。そんなことは分かっていたはずなのに、今さら思い知ったような心持ちに僕はなった。

彼が僕を憎んでいたこと。それ以上に僕を愛していたこと。知っていた。分かっていた。そう思っていた。

「―ひば、り、」

「骸」

言葉を遮るように名前を呼ばれた。その三文字だけで、僕は声を上げる術も言葉を紡ぐ術も完璧に奪われた。

「もうそろそろ時間だから、一人にしてくれないか」

彼は瞼を閉じたままであった。そうしてきっともう二度と開かないであろう。

あの黒い瞳が僕への憎しみに光ることも、恋情の色を湛えて僕を見つめることもないのだ。

彼の腕がだらりと垂れるその瞬間を、彼の体が温度を失っていく様を、どうしても見たくなかった僕は半ば逃げるように踵を返した。

乱暴に閉めたドアに背中を預けて、そのままずるずると座り込む。

彼はあと何分、もしかしたら何秒、生きていられるだろうか。

彼の目も声も髪も指も体も、恐ろしいくらい鮮明に思い出せるというのに、彼を抱きしめた感覚だけがどうしても蘇らなかった。

花など手向けてやるものか。絶対に。こんな裏切りなど認めない。玩具は所有者に忠実であるべきだ。

「雲雀―」

彼の名を呼ぶ声はひどく掠れていた。

視界が滲んだ。

彼に抱き続けた感情の名を、彼に縋ることのできなくなった今になって僕は知った。






2010-04-18

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