ごちゃまぜ

□暗殺者の憂鬱
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ベクターはお手付きの女中たちの中でもことさらに従順な名無しを呼び立てることが多くなった。時折別の女を呼びつけることもあったが、一番侍らされているのは名無しだ。これは名無しの背後の黒幕たちには喜ぶべきことであった。側にいる時間が長くなればそれだけ隙を見つけられる可能性も高くなる。彼らは名無しに、無理に危険を犯す必要はない、慎重に、だが確実に王の首を捕れと、何度も言い聞かせた。

名無しは大恩ある後見人に従い、毎度秘めた殺意を実行しようとするが、どうしてもベクターが隙を見せない。いや、計画を遂行できないのは必ずしもベクターの用心深さだけが原因ではない。最初の夜に芽生えた不快ではない不思議な気持ちの渦。それがずっと名無しの心を惑わし続け王暗殺を躊躇わせるのである。最初に抱いていた人殺しを尻込みしていた気持ちとは違った躊躇。名無しには自分自身の中で何が起こっているのかわからなかった。大恩をお返しせねばならぬのに、と強い罪悪感を覚えた。

ある夜のこと。事を終え乱れた名無しの髪を指に絡め弄びながら、ふと思い出したようにベクターは彼女に尋ねた。


「そういやお前、なんていうんだ」
「何のことでございますか」
「名前だよ。お前の名前」


これが酷く名無しを傷付けた。幾度となく召し出された。相当に気に入られているものと思っていた。しかしどうだろう。王にとっては名前すら覚えられていない身だった。


「…名無しと申します」


ベクターは名無しの動揺を容易に見抜き、堰を切ったように笑いだす。


「クックック、なんだよ、お前まさかオレがお前の名前を知っているとでも思っていたのか?ヒッヒャハハハ、オレが女中の名前なんかいちいち憶えてるわけねーだろ!ヒヒヒ、名無しちゃんよぉ。勘違い甚だしいぜ。何度か寝ただけで妃きどりはたまんねぇなあ。クッククヒャヒャハハ」


不可解なまでの強い憎しみが名無しを襲った。そして何故これほどに傷付いているのか。あの、最初の夜から名無しを悩ませ続けている気持ちの渦が、チクリチクリと心臓を刺してくる。

ベクターは相変わらず「勘違い売女が」などと口汚い言葉で名無しを嘲り大層愉快な様子であった。



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