ごちゃまぜ

□暗殺者の憂鬱
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狙っていた獲物を見事狩ったベクターは上機嫌だった。名無しを迎え入れた時には既に酔いがまわっていて実に陽気な有り様だった。

名無しは勘ぐられぬよう慎重に部屋の様子を探った。ひょっとしたら見えぬところで王の護衛が控えているかもしれない。だとすればその数と位置を正確に知っておかなければならない。王暗殺ためにそういった訓練を厳しく受けさせられていた彼女は、すぐにこの部屋には王と自分しかいないことを悟り気を重くした。もし監視があるのならそれを理由に今夜の計画を見合わせることができるのに。


「あのタペストリーはなぁ、遥か北の大陸の王国からぶんどってやったんだよ」


名無しはベクターが指差す、壁に飾られた見事な絹織物を見た。室内を探っていることを勘ぐられたわけではないようだ。おそらく戦利品の自慢がしたいのだろう。

非常に大きなタペストリーで、様々な色彩の美しい糸で細かく人物や建物などが縫われている。ベクターは薄ら笑いを浮かべたまま杯を傾けた。


「あれには北の王国の創造の物語が描かれているそうだ。わかるか?圧政者に苦しむ人民、圧政者を打ち倒し民を救う救世主、救世主の戴冠、救世主の庇護の下で肥沃な大地で耕す民たち…。クク、確かに豊かな国だったなぁ。芸術にも優れていた。おかげであの見事なタペストリーや、あっちにある壺も、ここにないものもいろいろ、いいものを持って帰ってこれた。ヒッヒ、あの物語には続きがあるんだぜ。知ってるか?」
「…ベクター様が侵攻し、捕えた民たちを集めた広場で救世主を処刑したと聞き及んでおります」
「フッヒハハハハハ、よく知ってんなあ!そうだよ、オレが滅ぼしてやったんだ!ヒッヒヒャハハハハ、あの時の国王と民の絶望しきった顔といったらよ、今思い出しても笑えるぜ。フッヘヘヘ。もうあそこには国なんかねえ、すべて焦土と化した!あれに救世主が民を救う涙ぐましい歴史が見事に描かれてるのを見るたびによ、笑いが止まらなくなる。フックク、すべて、オレに略奪され皆殺しにされるために、ヒッヒッハハハハ」


何がおかしいのかまったくわからない。なるほど狂王と噂されるのもよくわかる。

名無しは杯に酒を足した。褥を共にする者としての当然の義務、ご機嫌取りの意味もあるが、王には酔い潰れてもらわねば困る。確実に計画を遂行するためには武人としても優れているベクターを完全に無力化させる必要がある。

もっとも危惧すべきは暗殺の失敗だ。失敗して計画が露見するくらいならば今夜の遂行は見合わせた方がいい。そんなことになれば名無しの背後の暗殺計画が露見することになる。当然名無しはその場で処刑されることとなるであろうし、名無しからその後見人である黒幕たちにも容易に辿り着くだろう。たとえ証拠はなくとも王暗殺を謀った女の後見人として責任を取らされ殺される可能性は非常に高い。狂王は相手が自分の重臣であっても躊躇わないだろう。計画の失敗と露見は名無しの黒幕にとってもっとも避けるべき事態である。そのことを名無しは理解していた。もしも失敗の可能性が高いようであればまた時機を伺うしかない。先延ばしにすれば危険も増すが、失敗して計画が露見するくらいであれば先延ばしにしてしまう方がいい。


「お前も注いでばかりいないで飲んだらどうだ?」
「いえ、私は」
「遠慮してんじゃねぇよ。お前のような下賤な女が一生働いたって一滴だって口にすることの叶わねえ格別な酒だぜ。ヒヒッ」


ベクターは饒舌にその酒の産地や由来を語りだした。名無しは興味のない話に相槌を打ちながら、嫌な男だと思った。人を見下しきった冷たい眼。下品な笑い方。本当に嫌な男だ。

しかし、上機嫌に酔い潰れてくれるならその方が都合がいい。きっと。おそらく。


「お前、俺に召し出されてどう思った?」
「…ただただ驚くばかりでした。私のような者にお情けをくださって、身に余る光栄でございます」
「ハッ」


何故か鼻で笑われた。一刻も早くこの不愉快な仕事を終わらせてここから離れたい。憎く思えども殺意が芽生えるほどではないが、ここから離れられるのならもうなんでもいい。腹の中でそう考えていた時不意に手をとられ、唇を奪われた。口の中にぬるりとした生暖かい感触と酒の味。それが名無しが初めて男と交わした口づけとなった。ひたすらに不快だったが、もうこれ以上は何も考えまいとひたすらに努めた。



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