小休止
□夜霧よ 今夜はありがとね
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暗闇の中でふいにかたり、音がしたような気がして、眞子は蒲団の中でぴくりと身じろいだ。
息を殺して耳をそばだてるが、そこにあるのは怖いくらいの静寂のみ。
総司、と襖越しに声をかけてみるが、しばらくは夜間の巡察が続くんだ、と言っていたのを思い出す。
思い出したら急に、漂う空気の寒々しさが際だつのはなぜか。
頭から蒲団をかぶるけど、一度浮上した意識はなかなかスムースな入眠を許さない。
丑三つ時といえば、魑魅魍魎に妖怪の類が活発に騒ぎ出すとされる、非科学的なものたちのゴールデンタイム。
小さく身震いした眞子は、がばりと起き上がり、行くあてもないままそっと縁側に出た。
目前に広がるのは、地面から湯気のように立ち込める霧の海。
「盆地では霧が発生しやすいんだよ」
いつだったか、山南が教えてくれたのを思い出す。
特にこの辺りには田園や耕地(いわゆる緑被地域)が広がっていて、その多湿な土地柄が霧の発生を促すのだとか。
日中のしとしと雨もその一因だろう。
綺麗……
見慣れた光景さえも、濃淡の境目を不明瞭にぼかされたら、どことなく神秘的で趣深い。
滲んだ月光と霧のコラボ。
幻想的なその光景に心細さも忘れて見入ってしまい、ひんやりした夜半の空気が肌にまとわりついて表面の熱を奪ってゆく。
物音に恐怖したことも忘れて、しばし異次元に迷い込んだかのような不思議な感覚に浸っていた。
……ちょっと寒いかな。
ぶるり、身震いしたなら、共感と温もりを求めて脳裏に浮かぶのは、やっぱりあの人しかいなくって。
思い描けば無性に逢いたくなる。
毎日会って言葉を交わしてるのに、ほんの数時間で恋しくなるのは、もの哀しい季節のせい?
足は自然と、いくつかの和室を挟んで並ぶ土方の部屋へ向かい始めた。
◆◇◆
書き仕事に悪戦苦闘しているうちに、気づけば丑三つ時になっていた。
すっかり冷たくなった茶を飲み干した土方は、煙草の煙で汚染された空気を循環させるべく、静かに障子を開け放った。
ぼんやり浮かぶ白い輝きが、五感を震わせる秋の夜更け。
雨水が地面に染みこむようにじんわりと、しかし着実に季節は深まっている。
昔から「月」と言えば「秋」だと断言する風流人土方。
縁側に腰を下ろして優雅に足を組み、半月を愛でること数分。
虫の音もやんだ無音の夜長は、静けさゆえに尚冷える。
細く長く息を吸いこみ、冷えた空気で肺を満たした土方が、いい加減床につかねばと両手を伸ばした時。
肌にまとわりつくような湿った空気がかすかに揺れて、縁側の向こうから小さな声がかかった。
「なんだよ、こんな時間に」
「あの、なんか……眠れなくて」
「ふーん」
立ち尽くしたまま窺うような視線を寄越す眞子を手招きしたら、途端に笑顔に変わって遠慮がちに隣に座る。
「知ってるか?霧の濃い夜ってのは、海と陸の境界線があやふやになって、妖(アヤカシ)の類が跋扈するらしいぜ」
「え」
悪戯っぽく笑んだ直後、少し赤らんだ頬を両手で挟むと、そっと唇を合わせた。
たっぷり水分を含んだ粒子が、しっとりとふたりを包む軒下で。
霞んだ月明かりだけがぼうっと輝いている。
「明日も早いんだろ?さっさと寝ろよ」
「いえ、あの、なんか寒くないですか?」
「あ?じゃ、俺の蒲団貸してやろーか?」
「う……あの、ひ、人肌恋しくなっちゃって……」
さんざん怖がらせておいてそれはないでしょ?云わせないでよ、とばかりにプクッと頬を膨らませて拗ねた表情。
濡れた唇が艶めかしく男を誘う。
「冷えちまったな」
丸く柔らかな頬に触れて何げなくつぶやいたら、
「じゃ、あの……あっためてください……」
やっと聞きとれるほどのか細い声に乗せた大胆な誘惑の科白は、あまりにもぎこちなくて不似合いで。
驚きのあまり声も出せず石膏化した土方を、顔を真っ赤に染め上げた眞子が気まずそうに見つめ返して唇をわななかせた。
「あ……ごめんなさい、嫌ならいいの」
直球のお誘いに言葉を失ったままの彼の意思を「拒否」と捉えたのか、思わず口走った自分の科白に今さら照れているのか、瞳を潤ませてうつむいてしまう。
きゅうん、と軽く臓器を締めあげられるような妙な感覚に、土方は奥歯を噛みしめた。