Novel

□空色ペンキ。
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 そこに、空があった。
 どこまでも透明に、ただ青く、蒼く、碧く。
 震える足で走った。
 だって求めた空がそこにあった。









 ごうんっ。





 …………。
ぶつかった。普通に痛かった。
 空が震えていた。どうやら塀だったらしい。
「おいこら誰だ? あたしの空に何かぶつけやがったのは……」
 曲がり角の向こうから割りに高い声が近づいてくる。
 目が、合った。
 ペンキに汚れた作業服の、女の人、だった。栗色の髪を首のあたりでひとつに束ねている。意志の強そうな瞳は、光に透かした葉のような明るい緑色をしていた。手のバケツから、つんとペンキのにおいがした。もう片方の手には、大きな刷毛。
「え、あの、すみません。ぶつかってしまいました」
 ぽかん、と彼女は口を開けた。
「何、ぶつかったの、あんた? 物じゃなく?」
 こくこくと自分は頷く。
 はあ。ため息。
 呆れられてしまった。彼女は刷毛の柄で頭を掻いて
「で、なんでまたあんたはさ、塀なんぞにぶつかってんの? 余っ程呆けてたとか?」
 と問う。
「本物の……空だと思ったんです」
「はぁっ?」
「空だと思って、このまま行っても大丈夫だと……」
 懸命に言葉を選ぶ。なかなか気持ちが言葉にならないのがもどかしくてならない。
「……本当に?」
ぐっと顔を近付けて彼女は聞いてきた。また、自分はこくこくと頷く。
「本当だな」
 念を押すようにもう一度問われ、強く頷いた。
「あんたが初めてだ」
 近付けた顔を離し、彼女は弾けるように笑った。陽の光みたいだった。彼女は自分の知らない陽の匂いがした。
「あたしの空をそんなふうに言ったやつは」
「すみません」
「何で謝んのさ。あたしは、嬉しいんだ」
 本物の空って言われてさ。少し照れたように彼女は言う。
「この空は、あたしが描いたんだ」
 誇らしげに彼女は塀を見上げ、自分もそれを見上げた。
 相変わらず、空はそこにある。この世界には、もう、ないはずの空が。本物でないはずなのに、どこまでも本物のように。
 それは、泣きたくなるほど、きれいだった。
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