crocodile
□例えばね、愛を語るなら最期の時に
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とどまる事を知らず、繰り返される日々。
私の手によって回るこの車椅子の車輪の様に、滞り無く回り、進めばいい。
ただ、繰り返される日常を。
「名無しさん」
ただ、繰り返される日常。
それが、いかに幸福な事であるかを、私は知っている。
「名無しさん」
耳を撫ぜるこの声が、頬を伝うこの手が、明日も、明後日も降って来ると言う事。
それは何と幸福な事か…
「お仕事はよろしいんですか?」
ゆっくりと車椅子を押す彼に尋ねてみれば、簡素な肯定の声が返って来る。
バルコニーに出ると、頬をかすめる風が心地良くて目をつむった。
すると、そっと頬にあてがわれた武骨な手。
「思ったより冷えるな」
暖かな彼の体温。頬にじんわりと染み渡るその温もりが更に心地良い。
あぁ、なんて、幸せ。
「水をさす様で申し訳ないのだけれど、電話よ。Mr.0」
「…名無しさんを先に部屋へ連れて行け。勿論、他に誰も近付けるな」
直ぐ戻る。耳元で微かに囁かれたそんな言葉に、またくすぐったい様な暖かさが広がる。
手を煩わせてしまったお詫びと感謝をロビンさんへ告げれば、彼女はそっと微笑んで労る様な手付きで車椅子を押してくれた。
「息苦しくなったりはしないの」
彼女からの突如とした言葉の意図を掴みきれず、尋ねる様な目線でその表情を伺う。
「大事に、まるで箱にしまわれている様なこの生活は、息苦しくは無い?」
「いいえ。とても有り難い日々です。私はこんな身体でも、陸でしか息を吸えないので」
そっと膝掛けのかかった足を撫ぜる。
掌を、一枚一枚伝う“鱗”の感触。
人間の男性を愛した人魚、人魚の女性を愛した人間。
誰が止めようとも止まらない愛は、形になって命を生んだ。
でも生まれた子供は、人間でも、人魚でも無かった。
「っ、地震…!?」
「砂嵐ね…」
唐突にガタガタと音をたてた窓に気を取られ、落ちて来る物に気付けなかった。
振り向いた時には、先程まで隣りにあった花瓶が目前にあり、キツく目をつむった。
「怪我は無いみたいね?でも濡れてしまったわね…」
咲き誇るロビンさんの手によって花瓶は元の位置に戻された。
「大丈夫です。ありがとうございました。ただ、なるべく急いで部屋に戻って頂いてもいいですか?」
生み落とした子供には、2本の足があった。
綺麗に拭いて服を着せてやると、その足は魚のひれに変わった。
水を被ると人間になり、陸に上がると人魚になる。生まれた子供は、出来損ないの人魚だった。
「どう言う事だ」
2本の足を投げ出してはベッドに横たわる私の姿を見るなり、彼は怒気を露にした様子でロビンさんに詰め寄った。
「先程の砂嵐で揺れた時に花瓶が倒れて来て、それで…だからロビンさんは悪くはありません」
それでも2人は、一生懸命にその子供を愛した。けれど、周囲の誰にも受け入れては貰えなかった。
2人は引き離され、その子供も何処か知らない島へ流された。
奇異な子供を拾ったある人間は、食べ物を与え、教養を与え、その子が大人になるまで育てた。そして綺麗に着飾っては髪を梳いて、まるで人形の様に愛しんだ。
しかしその人間の“愛”にいつしか恐怖を覚えた少女は、そこから逃げ出した。
それから少女は、ありとあらゆる人の手に渡った。
「誰にも見られなかったか」
「はい。大丈夫です。あの…ロビンさんに厳しく当たらないで下さい…」
彼女は悪くないので…と眉を下げて彼を見やれば、突然ベッドに縫い留められた。
「やけにアイツの肩を持つな」
鋭い目線が突き刺さるが、どうにも込み上げる感情を押さえられなかった。
「何笑ってやがる」
「いえ…私、幸せだな。と思いまして」
「ハッ、下らない事を言う余裕は今のうちだけだ」
そう肌を伝う彼の体温が熱くて、私はもう溶けてしまいそうだった。
一時期ヒューマンオークションを賑わせた“珍しい人魚”。買い取った者の手からその度に連れ去られ、求める人々の手を転々としていたその人魚は、ある時を境にぱったりと姿を現さなくなった。
「いなくなったと思ったら、こんな所にいたんだね」
心底慈しむ様に髪を梳くその手付きに、私は声も上げられなかった。
うたた寝ていた穏やかな昼。ふと目を覚ますと、私を育ててくれた彼が目の前にいた。
ただ繰り返される日常がいかに幸福か、私は彼に出会って知った。知っていたのに、その時の私は理解出来なくて、恐ろしくなって逃げ出してしまった。
自分に与えられた幸福を踏みにじった代償を、私はいつか受けるべきなのだ。
彼が正常に私を愛していたかは、誰が測る事も出来ない。けれど、私が自身に伸びるこの手を払い除ける事など、出来はしない…
「名無しさん…!」
私は普通の人間より少しだけ長く生きられて、普通の人魚より早く死んでしまうらしい。
「これは…なんだ」
だからきっと、愛しいこの声が途絶えるのを、私は見送らねばならない。
「私の“コイビト”よ」
そんな悲しい時間を知りたくは無い。
「なんだと…?」
出来るなら、あなたと一緒に私も泡になって消えてしまいたい。
「私を育ててくれた、私のイトシイ人なの。アイシテルの。誰よりも」
けれど、きっとそんな事は叶わないから、
「私を探してここまで来てくれたのよ。私も彼がスキでスキで堪らないの」
願わくば、最後はこの腕に抱かれていたい。
「アナタをアイシテなんかいなかったの、クロコダイル。憎い?ならばアナタの好きにしたらいいわ」
首に絡まるこの腕が
「!、くっ……好き…」
鋭いその目が
「好き、」
甘いその声が
「好、き…っ…」
私を愛してくれた貴方を
「あい、してる…」
だからね、死ぬなら、貴方の手にかけられたいの。
例えばね、愛を語るなら 最期の時に
(幸せが怖い私は、弱い。そんな弱い私を愛してくれて、ありがとう。私は、幸せです)