倉庫
□右目に触れて
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最近たぬたんと会わなくなった。たぬたんの部屋に行ってもいつもいない。小十郎に聞いたら。
「体調を崩して実家の方で休んでいます。貴方にうつさないようにと」
だから、毎日早く治るようにと仏様に拝んだ。
寝る前に必ずたぬたんがしてくれた、目の上に手を被せてくれるあの行為。あれが無くなってから夜中に目が覚めることが続いた。
今日も怖い夢を見て起き上がった。それで、たまたま部屋を出た。屋敷も抜け出してひたすらに走った。人なんてどこにもいなくて、ただ真っ暗な道と梵を月が照らしている。息が切れ出した頃、足を止めて見上げた。
父上と母上のいる城。さっき夢を見たばかりなのにどうしてここに来たのか、母上のいる場所に。
「……」
体が震えている。
怖い、怖い、怖い。
あの時を思い出して。
"化け物"
また走った。母上を忘れられるくらいに遠く。涙なんか出なかった。
気付けば水の流れる音がした。川原だ。どの辺りの川なのだろう。屋敷から離れた所まで来たことには変わりないが。
と、誰かがそこにいた。誰にも会いたくないのに。今の自分を見て欲しくない。あの人以外には。
その人が気配に気付き、振り返った。
「……梵天丸様?」
たぬたんだった。
「たぬたんっ」
会いたかった人がそこにいる。梵天丸は走ってたぬたんに抱き付いた。すると、たぬたんはしゃがんで彼の肩に手を置いた。
「なぜこんな時間にこちらへ」
「目が覚めたんだ」
「だからと……こちらには青葉城しか」
そこまで言い口を噤んだ。たぬたんは俯き、梵天丸から手を離した。その様子を彼は不思議そうに見た。
「義姫様にお会いしたくなったのですか?」
「……分からない。でも怖くなって走った。そしたらたぬたんに会えた」
梵天丸は彼女の袖を掴み、見上げた。
「風邪は治った?梵、毎日拝んでたんだよ、たぬたんが早く治るように」
「……そうだったのですか」
風邪など嘘。梵天丸の前に姿を見せたくなかったのだ。
愛情を注ぎたい。だが昔を思い出させたくない。そんな矛盾した気持ちが廻り、結果的には距離を置くことにしていた。
だが、本人から本当の気持ちを聞いたことがない。
貴方は母親が恋しいですか?
その言葉すら彼には辛いものと分かっていながらも聞きたかった。
「たぬたんは梵が化け物に見える?」
突然の問い掛け。一瞬言葉に詰まった。同じように彼も義姫のことを考えていたから。
「まさか」
「でも、震えてる」
「この震えは梵天丸様がそのように見えるからではありません。それに、私は貴方のことを大切に思っております」
いつもはその言葉で嬉しそうな表情を浮かべていたのに、今は悲しそうな顔をしている。
「もし本当にそう思っているなら、梵の右目に触れる?」
貴方は私以上に苦しんでおられる。表では側近の者は優しく接してくれる。
でも心の中は?それが不安で。
「(人を信じることを恐れられている)」
たぬたんは晒しにそっと触れ、外した。空洞と化した右目。その周りにはあの"痕"。恐怖を感じる者は感じるだろう。しかし、たぬたんは違った。
「あ……」
彼の頬に両手を添え、そこに口付けを落とした。久々に感じた温かさ、梵天丸は呆然としていたが、今の行為が言葉に偽りがないのを表した。それを知るとようやく嬉しそうに笑い、彼女の首に腕を回した。
「たぬたんが梵を愛してくれてるなら、母上がいなくても平気だから」
子どもは人の心を見透かしたようなことを言う。それは梵天丸が実際に体現した。まるで自分の苦悩を知っていたかのように。
「(ご自身のことになると不安なのに)」
たぬたんは涙を零した。それを見た梵天丸も涙を零した。
「たぬたん、泣いてる」
「梵天丸様も」
「梵が?」
彼は右目に手を当てた。
「そちらではなく左目からですよ」
涙を拭ってやると、彼は呟いた。
「でもこっちの奥がじーんとして熱いんだ」
泣くことはもうできないのに泣くことを忘れていない。その現象は更にたぬたんに涙を流させた。
「ならばその分、左目が涙を零しているのですね」
辛さも恐怖も全て流すように。