倉庫


□一人の人間として
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「梵天丸様、あまり覗き過ぎると落ちてしまいますぞ」

小十郎は縁側に正座し、野菜のしごをしていた。彼の目線の先には身を乗り出して池の中を見ている梵天丸がいた。
池には鯉がいる訳ではない。ただ水面が揺れ、緑の葉を付けた桜と梵天丸の顔を映していた。小十郎の忠告が聞こえていないのか、じっと池の中を覗き込んでいる。
もう一度注意しようとした時、廊下を歩く足音が聞こえた。軽い足音は女性とすぐに分かった。

「小十郎殿、立派な野菜ができましたね」
「たぬたん殿」

その名にピクリと梵天丸が反応する。小十郎は彼女に頭を下げた。たぬたんも二人に軽く挨拶し、小十郎の横に座った。
野菜の話で彼が熱く語り始める。たぬたんはそれに相槌を打ち、笑みを零す。梵天丸は胸がちくりと痛くなった。


梵も、梵も見てよ

梵天丸は池の方に向き直り、そこへ落ちた。


ボチャンッ

「梵天丸様!」

小十郎は庭へ飛び出し、池に入って彼を抱き上げた。

「梵天丸様、お怪我はありませぬか?!」
「……大丈夫」
「今、お体を拭く物とお着替えを持って参ります」

彼は縁側に梵天丸を座らせ走って取りに行った。たぬたんはその素早い動きを見ていたが、梵天丸に顔を向けてにこりと笑った。

「小十郎殿は大袈裟ですね。男子はこのくらいでなければ」

その顔を彼は見つめた。

「(……違う)」

先程の笑みとは違う、素では無い笑み。悲しくなって俯いた時、小十郎が戻ってきた。

「梵天丸様、お召し物を替えましょう」
「……にしてもらう」
「?」
「たぬたんにしてもらう」

小十郎は驚き、彼を諭すように言った。

「梵天丸様、たぬたん殿はもうお戻りに」
「たぬたんにしてもらう」

頑なに小十郎を拒み、強くたぬたんの手を握った。彼女は黙っていたが、立ち上がり小十郎の手から持ってきた物を取った。

「構いません、私がいたしましょう」
「たぬたん殿」

梵天丸と手を繋いだまま彼の横を通り抜ける時、ポソリと言った。

「報告は、また後ほど」




部屋に着き、障子を閉めると梵天丸はたぬたんの手を引っ張った。彼女は視線に合わせるように座る。

「どうなさったのです、わざと池に落ちたのでしょう」

見抜かれていたことに彼は心の中で喜んだ。自分を見てくれていたのだと。たぬたんは替えの着物を横に置き、手拭いを彼の頭に被せた。優しく髪を拭うと気持ち良さそうに目を細める。
だが、どこか悲しそうだ。

「梵天丸様、何かあったのですか?」

手を動かしながら訊ねる。ここ最近わざと怪我をしかけることをするようになった。その度に小十郎は大変心配した。どこか体調が悪いのではないかと。
彼の行為がわざとだと気付いているのは、誰よりも付き合いの長いたぬたんだけであった。

「私で良ければ、話していただけませんか?」

梵天丸は彼女と目を合わせしばらく黙っていたが、髪を拭いていた彼女の手に自分の小さな手を乗せ、小声で、だがはっきりと問うた。

「たぬたんにとって、梵は父上の子というだけ?」

手が止まった。子どもがはっきりとそのようなことを言うなど誰が想像出来るだろう。

「梵は次期城主になる。だから父上の子としてしか見られないんだ」
「……」

宿命と言う他ない。期待を寄せられている分そのようになるであろう。梵天丸はもう1度問うた。

「梵はたぬたんにとって、父上の子というだけ?」

たぬたんは口を開き何かを言おうとした。だが、それを梵天丸自身が遮った。目を見開くような言葉で。
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