★MGS小説2

□白い柩
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「奥さん、良かったら俺の車に乗って行きませんか?」
パン屋の紙袋を抱えながら歩いていた美人にふざけた調子で呼び掛けると、彼女は呆れ顔で笑った。
「馬鹿ね。休みだし、昼まで寝ていても良かったのに」
白く引き締まった綺麗な脚をスカートの裾から覗かせながら、俺の側まで歩いてくる。着ているのはこの間買った夏物のワンピースだが、よく似合っていた。
「君が側にいないと落ち着かなくてね」
俺は助手席に乗り込んだ彼女に軽くキスをし、纏めた髪からほつれて肩に付いていた金髪の束を、彼女の耳へ掛けた。紙袋の中からは焼きたてパンの香ばしい匂いが漂っている。
「この店のパンは美味しいのよ。私が小さい時からあの店はあって……」
彼女の両親も贔屓にしていた事や、彼女がまだ子供だった頃の話が続く。俺は適当に相槌を打ちながら幸せの魔法のような他愛ない話に耳を傾けた。
平和で脅かされない幸せな世界を何度夢見た事か。彼女が望んだそれは、皮肉にもここで実現されている。
この理想の地で彼女と共に暮らし始めた俺はこれ以上ないほど満ち足りていたが、真実を問われる事に内心怯えていた。
「そういえば昨日のソテーだけど、ちょっと塩辛かったかしら?」
「いや、美味かったよ」
料理が好きな彼女はよく俺に感想を求めるが、彼女ほど美食家でない俺の感想はいつも決まっていた。
「そう、それならいいけれど……」
「朝食は何にしようか?」
冷蔵庫にあるベーコンを焼こうと提案したが、却下された。
「今朝はサラダサンドと豆のスープよ」
「……君はまだ俺の腹を絞る気でいるのか」
腹回りがややだらしなくなっているのは自覚している。もう六十に届こうという年齢なんだし見逃してくれてもいいだろうと思うのだが、厳しい彼女は許してくれなかった。
「任せておいて。あなたがお腹いっぱい食べても痩せるような献立にするから」
「腹回りに肉がつくのは歳のせいだと思うんだがな。若い頃は痩せていたし、今だって……」
服のサイズ自体はそんなに変わってないと言いかけた俺に、彼女は首を振った。
「ベッドで毎晩一緒に寝ている私に何を言い訳しても無駄よ」
「……分かった、善処しよう」
老人になる前の僅かな抵抗ではあるが、彼女が満足するならそれでもいいだろう。俺は横目で助手席に座る彼女を盗み見た。
豊かな金髪とすらりとした体つきは、四十代という年齢を感じさせない。彼女はいつでも俺の美しい妻だ。
「どうしたの?」
視線に気付き、訝しげに訊く。俺は真面目に答えるのは恥かしいので、わざと冗談めかして言った。
「いや、なんだかんだ言っても綺麗な女と暮らすのはやっぱり男の幸せのうちだなと思っただけだよ。好きなだけ見とれていられるからな」
「褒めてもベーコンは焼かないわよ。そして、運転中はしっかり前を見なさい」
ぴしゃりと言い返し、彼女は助手席から見える海に目を向けた。意外と恥ずかしがりなので照れているのかもしれなかったが、背けられている顔は見えず表情までは窺い知れなかった。
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