モップの柄に身体を預けて窓の外に視線をなげる。
なんかもうどうでも良くなっちゃったなぁ。
窓越しの青い空をぼんやりと見上げてエドワードは長い息をはいた。
今日は月曜日。床にモップをかけると決めている日なのに、それは自分の中では結構気に入っている家事なのに、どうにもやる気がでない。
理由は――。
一昨日、いつものようにロイに誘われて出かけたミュンヘンの街中で不意に声をかけられたのだ。
「マスタングさん!」
弾むような声にふり向けば、若い女性が手を振って近寄ってくるところだった。
その女性を認めてからちらりと自分を見たロイの気まずげな視線に気付かないエドワードではない。
「ひょっとして、エドワードくん?」
マスタングさんに聞いていた通りだったからすぐにわかったわ、とその女性は右手を差し出してきた。
「こんにちは。あえて嬉しいわ。マリア・ロスです」
にっこりと微笑む女性はきれいだった。
「あ、どうも……」
勢いにのまれて差し出された右手を取る。
ぎゅっと握られたその手は、暖かくて華奢だった。
「先月ひったくりに鞄を取られたところをマスタングさんに助けていただいたの」
明るい笑顔とハキハキとしたしゃべり方。ただ美人なだけではなく、生きる力に溢れた女性だと思った。
左目の下にある泣き黒子は彼女を薄幸そうにみせるのではなく、チャーミングなアクセサリーのようだ。
「マスタングさんはあなたの話ばかりするの。だからすぐにエドワードくんだってわかったわ」
マリアの言葉にエドワードはなんと返していいか戸惑う。
「あー、フラウ・マリア……」
間に割って入るロイの声は困惑を滲ませているがマリアは気に留める様子もない。
「いやだわ、マスタングさん。そんな古臭い呼びかけ方」
にがりきった口調にもひるまず軽くいなして、さらにエドワードに声をかけようとするのを、ロイは身体で遮った。エドワードに聞かれぬように声を抑えたが、ちょうど車の往来が途切れ、その言葉はエドワードにも届いてしまった。
「その話はまだエドワードにしていないんだ」
あら。というように目を見開いたマリアは一瞬だけ気まずそうに視線を逸らせてからもう一度エドワードに視線を合わせた。
「今度三人でお食事でもしましょうね」
ね? と、念を押されるように微笑みかけられて、頷く。
ロイにも同じように念を押してから、彼女は去っていった。
あの時、聞いてしまえば良かった。
今の誰? 恋人?
って、軽い感じで。そうしたらロイも「そうだよ」って、軽く答えやすかっただろうに。
あの後も、昨日も、ロイは何かを言いたげに、けれど、ひどく言いづらそうにエドワードを窺っている。
「さっさと言えばいいのに」
ひったくりを取り押さえて鞄を取り返してやる。それくらいロイには易いことだろうし、さぞや格好良かったことだろう。助けてもらった女性がロイに好意を持つのは当たり前だし、お礼がてら一緒に食事でもとか、そんな展開になって、お互いに惹かれあう。まるでドラマか何かのようだが、そんな展開も当然だと思う。
話してくれればよかったのに。
せめて、ひったくりを捕まえたことだけでも聞いていたら、もっとすんなり納得できていたと思うのに。
先月のことだとマリアは言っていたが、その後に何度か会っているらしいことは彼女の言葉からうかがえた。
家で夕食を取らなかったことはないから、仕事の合間のランチデートを繰り返しているのだろう。
ひょっとしたら、今、このときにも。
そう思ったとたん、焦燥感が身体の中をかけめぐる。
どうしよう、と小さく呟いて、どうしようもないだろ、と自分に呟き返す。
いずれこんな日が来ることはわかっていたはずだった。
わかっていたのに、ちゃんと考えなかったのは自分だ。