短編
□なごり雪 (P3)
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夜も明けきらない早朝の空気は身を切るほどに冷たい。
天気予報では今日は一日曇りで気温はあがらないだろうということだった。
すっかり春らしくなりましたねぇ、と事務の女性と会話をしたのはつい昨日のことだが、今日はまた冬に逆戻りの天気らしい。
東行きの汽車の出るホームは、時折遠くに駅員の影がちらつく以外他に人影はない。
朝靄にわずかに輪郭をけぶらせた君は、憎らしいほどに落ち着いてそこに佇んでいる。
私は端然と立つ君にかける言葉を探し出せず、ただ黙って見ていることしかできなかった。
小さい小さいと思っていたが、こうして見れば背も伸びたし、身体も大きくなっている。白い頬は少年らしい瑞々しさを残しながらも昔よりも削ぎ落とされて細くなった。
大人というにはまだ線が細すぎるけれど、確かにそこには数年分の成長が見て取れた。
照明を鈍く反射する金糸は、いつものようにみつあみに結われている。手足を失ったその日からたぶん一度も切っていないであろう髪の長さに、出会ってから今日までの年月を想う。
どれだけの月日をこの子を見て過ごしてきたのだろうか。
会うたびに、肉体的にも精神的にも成長していく少年を見るのは楽しくて、同時にひどく切なかった。
喜びも哀しみも痛みも全てその小さな身体に受け止めて、それでも君はいつも毅然として前を向いて歩いていたから。
終業時間近くに私の執務室を訪れた君はこわばった笑顔をはりつけて机の前に立っていた。
挨拶も、普段の軽口もなく、君は鋼のままの右腕をいっそ恭しいほどの手つきで机の上に伸ばす。
ことり、と乾いた音をたてて私の机に置かれたそれを見つめたまま、君はまるで内緒話をするように潜めた声で一言、返す、と告げた。
私が手を伸べるよりも早く逃げ出した手は身体の脇で握り締められる。
「アルを取り戻した」
「それはおめでとう」
銀時計を差し出した時からわかっていた。君がそれを返すことにしたのなら、他に理由などあるはずがない。
それでも言わずにはいられない。
「その手は? 足はどうなった? もう足掻くのはやめたのかね」
執務室の電灯に鈍く光る鋼の腕に視線をあわせたまま、口角を上げわざと意地悪気に尋ねる私に、君はこわばった顔のまま首を横に振る。
「もう、いいんだ」
握る手に力をいれたのか、金属のこすれる音が小さく響いた。
「リゼンブールに帰るよ」
その言葉も予想のうちだった。
ならば、かねてから用意していた言葉を告げる時は今をおいて他にない。
「この鎖を君が断ち切る時がきたら言おうと思っていた」
机に置かれた銀時計に繋がる鎖をそっと指でたどりながら。
俯く視線を掬い取るようにその顔を覗き込んで──。
「鋼の、」
「もう会わない」
口を開く私の機先を制して君の声が響く。
たったそれだけを告げて駆け出した君に呆然とする。
ドアの閉まる音に我に帰り、次の瞬間、私は走り出す。背後で椅子の倒れる音が響いた。
東の空がかすかに明るくなってきた。
あとどれくらい君を見ていられるのだろう。懐中時計を取り出してしまえば、時間を気にしていることを知られてしまうのでそれもできない。
視線をさりげなく巡らせて私は駅の大時計を見上げた。
ふ、と傍らの君が空を仰いだ。
ハラハラと舞い落ちる雪を金色の瞳が追いかける。
「中央で見る雪もこれが最後だな」
白い息とともにこぼされた台詞は私の心に染み込む。
その声が淋しそうに震えて聞こえるのは、決して私の気のせいじゃないはずだ。
「また来ればいいではないか」
希望を込めて口にした言葉だったが、君はそっけなく一言を返してくる。
「もう、二度と来ない」
昨夜聞かされた君の決心が揺らぐことは有り得ないのだろうか。