another ss

□胸中、穏やかでなく。
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しとしとと、春雨が降る午後七時。

もうすぐ、帰ってくる。
キミが、帰ってくるから。

白い壁に凭れ掛かって、独特の臭いが充満する空間にただ腰を落とす。

(早く、絵、仕上げなきゃ。)

いろんなことが浮んでは消える。
ぼんやりとそれを繰り返す。

リビングに散らかるゴミも、片付けなくちゃ。
全部水に流さなきゃ。
汚れた手と顔を洗って、歯を磨いて、それから。

いつも通り、笑って「おかえり。」って言わなくちゃ。



トイレに篭って四十二分。
俺はひたすら胃の中のモノを吐き出し続けていた。





『これ、やるよ。』

そう言って投げ渡された包みを開けると、ちょっと高そうなハンドクリーム。

『その右手の手荒れ、絵の具とか画材のせいだろ?』

どうして気付かなかったんだろう、自分の手なのに。
胃液でカサカサになった指先、甘皮、細い関節。

『…ありがと、』

俺は嘘をついた。
キミは何も知らない。





「ただいま。」

「おかえり。」



喉が痛い。
頭が痛い。
身体が重い。

さっき二ヶ月ぶりに体重計に乗った。
細い女の子の数字だった。



「…佐助、」

「なぁに?」

「おまえ、大丈夫か?」

「至って健康ですけど。」



俺はまた嘘をついた。
二日前に初めて血を吐いた。
たぶん、食道のどこかが切れたんだと思う。

イスから立ち上がった時、フラフラするようになったし。
この間は風呂場で倒れた。

健康なわけがない。



「痩せた、ろ。」

「絵がなかなか仕上がらなくて、寝不足なだけ。」



てきとーに、誤魔化す。

Tシャツの下にタンクトップを2枚着て、着膨れさせて。
上手いことやって、バレないように。



「…頬、こけてる。」

「じゃあ政宗が作ってくれる晩ご飯、たくさん食べるよ。」



笑って、逃げる。
話を流す。
これ以上追求されたらボロが出る。

やめて。



お腹いっぱい食べた夕食も、キミの目を盗んで全部トイレに吐いた。
涙がボロボロ零れて、どうしようもなかった。





なんでこんなふうになったんだろう。
なんで、なんで、
全部俺が悪いんだけど。
全部俺が悪い。

キミを好きになった俺が悪い。

顔を見るのも、
声を聞くのも、
一緒いるだけでも、
辛い。
苦しい。
潰れそう。

でも全部俺が悪い。
キミは悪くない。

だから何も知らないでいい。





「いってきます。」

「いってらっしゃい。」



そしてまた朝、変わらない笑顔で会社に行くキミを送り出す。

五分後。
財布だけ持ってコンビニに駆け込む俺を。
キミは知らない。

キミは何も知らない。



あの白くて狭い四角い部屋だけが。
堕ちて汚れた俺を冷たい目で見ている。



END.



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