保管庫


溺れる月
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暗闇の中雨音だけが響いていた。それは陸に居ながら溺れて行く幻覚を抱かせる。
月の無い晩、この夜の中でかすがを包むのは降り頻る雨音だけだ。
音も無く寝間の戸が閉まった。
誰かが衝立まで歩き、掛けてあった手拭で濡れた身体を拭いている。
程無く衣擦れの音がして布団の中に潜り込んだ人影は、まだうっすら濡れている額をかすがの背に押し当て後ろから抱き竦めた。
寝間着一枚通してその冷たさがじわりと染み出す。
かすがは何も言わない。
夜具に入り込んだ不埒者を叩き出す訳でもない。
ただ目を閉じてじっと雨音に聞き入っている。
今夜も自分は溺れるんだ――背に広がる冷たさとは別の厭わしさがかすがを支配する。
背中の深い溜め息が雨音を遮った。
濡れている脛を足の裏でなぞると冷たい足が素早くかすがの足を内側からがっちり絡め取り、股の間に割って入る。
「へへ、待った?」
聞き慣れた声が耳元で響いた。やはり今夜も自分は溺れるらしい。
「別に」
背を向けたまま素っ気無い返事を返す。
「あーあ、毎度の事ながらつれないねぇ。ここまで来るの大変なのに」
軽く愚痴めいた口調が一層嫌悪感を増大させたがそれでも相手を拒めない。
仄かに冷たさを残す唇が耳の裏から首筋へと滑って行く。
雨が降る夜、二人は共犯者になった。もう何回目の秘め事か覚えていない。
秘め事の間、暗闇の中で尚かすがは固く眼を閉じる。
瞳を閉じればそこに一番愛しい人の姿が浮んだ。
乳房をまさぐる節くれ立った指はたおやかな指に変わり、自分を見詰める視線は涼しく麗しいものに変わる。
絡ませた腕や足は細くなり、熱っぽく囁かれる名前はあの呼び名になった。
かすがの口から誘う様な焦れている様な甘い吐息が次々に咲く。
――謙信様
思わず言いそうになり僅かな理性で咄嗟に薬指を噛む。
弁えるべき所を知る二人は決して快楽を餌に取引を持ち掛けたりせず、
かすがも寝間で主の名を口にしなかった。
夢を見たい。せめて今だけ甘い夢を見て酔い痴れていたい。
体を重ねている相手があの方で、抱かれた後身体に残る汗の匂いがあの方のものなら何て僥倖だろう――。今夜も男の腕の中でかすがは泡沫の夢に溺れた。
いつも自分を擦り抜けて遥か高みを望み続ける方。
どんなに慕っても自分をモノとしか見てくれない方。
初めは傍らに居られるだけで幸せだった。
モノで無く女として見て欲しいと言う思いが押さえ切れなくなったのはいつからだったろう。
もっと自分を見て欲しい、その手に触れたい、抱き締めて欲しい、一つになりたい――。
叶わないと思えば思う程激しさを増す行き場の無い熱はかすがの中で嵐となって荒れ狂う。
男が忍んで来たのは丁度そんな夜で、雷鳴轟く驟雨の中だった。
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