保管庫


ルリハコベ(謙信×かすが)
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上手く誤魔化したつもりだったが、主は悪戯っぽい笑みを口元に乗せてかすがを見ている。
「おや?誰の事を考えているのです」
飽くまで惚けた口調で尋ねると、かすがは顔を真っ赤にした。
「な、何でもありません!」


その頃謙信は上杉の家督を継いだばかりで、他家から養子に入った経緯から
家臣はいっかな纏まらず、自身の基盤は非常に危ういものだった。
謙信が北の姫君を正室に迎えようとした時、家臣団は猛烈に反対した。
敵国の姫と添うなど以ての外と強硬な態度を崩さず、遂に謙信は姫と別れる事を
余儀無くされた。
「今でも思う。あの時もっと私が強ければ、違う道が拓けたのではないかと」
美しい眉を顰め主が目を閉じる。
「謙信様…」
如何にも苦しげな表情だが、それすらかすがは美しいと思った。
主にこんな顔をさせる女を許せない。
「その方は今どちらに?」
「随分前に亡くなられた。別れてすぐ、出家した先の寺で」
「患われたのですか」
主従の間に短い沈黙が流れる。入り日色に染まった楓が一葉、縁側に舞い込んだ。
それを見詰める主の瞳は物悲しい色を湛えている。
「……或いは、想いが強過ぎたのやもしれぬ。私と共に生きられぬ浮世に絶望された」
山の木の葉が色付き始めた頃、北の姫君は懐剣で自ら命を絶った。
以来、謙信は戦や政務にどんなに忙殺されてもこの時期は写経して姫の魂を慰める事を忘れない。
「私はあの方に何もして差し上げられなかった。
 こうして独り身を貫き御仏に祈るのがせめてもの罪滅ぼしなのです」
かすがは後悔した。
分を弁えず主の聖域を荒し、辛い事を思い出させてしまった自分が恥ずかしい。
決り悪そうに俯くかすがを見て謙信は優しく言った。
「つるぎ、昔の事です。既にあった事。もう終った事ですよ」
「……謙信様」
見る見るうちにかすがの琥珀色の瞳に涙が溜まる。
今にも零れ落ちそうな雫を謙信がそっと拭った。
「その様な顔をするものではない、かすが」
この娘が腕の中に飛び込んで来た日の事を謙信は良く覚えている。
――あの方だ。
一目見て直感した。
譬え姿形は変っても魂は変らない。北の姫君が生れ変り、毘沙門天に仕える羅刹女となって再び自分の元に舞い戻ってくれた――信仰心篤い謙信はそう信じて疑わない。
日に透ける金色の髪も琥珀色の瞳も北の姫君とは随分違うが、懸命に自分を慕う姿や少々そそっかしい様子は姫そのもので思わず目を細めてしまう。
「名はなんと言う?」
謙信がまず娘に尋ねた事だった。
――ございません。如何様にもお呼び下さい。
大人びた硬い口調で返され、暫し謙信は瞑黙する。
この娘を何と呼ぼう。あの方の名にしようか、それとも――
「ならば、お前の名はかすがだ」
――えっ?
娘が驚いて顔を上げる。あの日勇気を振り絞って思いの丈を打ち明けた時も姫はこんな顔をした。
「そなたの髪の輝きは真に春光の如く。即ち、我が城と同じ春日だ。不服か?かすが」
琥珀色の瞳が歓喜に染まる。
――いいえ謙信様。私は、かすがは必ず謙信様のお役に立ちます。
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