保管庫


ルリハコベ(謙信×かすが)
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「どうしたのです?つるぎ」
ハッとして顔を上げると、写経を終えた主が怪訝そうに庵の縁側から
こちらを見て居た。
「いえ、謙信様。何でもございません」
慌ててかすがは取り繕う。
「そんなに濡れては風邪を引きますよ。こちらへ来なさい」
そう言うと謙信は戸を開けたまま中に引き返した。
雨に濡れた身体を軒先まで怖々運ぶと、丸火鉢に置かれた銅壺から白い湯気が
しゅんしゅんと音を立てて勢い良く上がっている。
「ふふ……本当は般若湯があれば良かったのですが」
にこやかに言う主につられてかすがもはにかむ。今日の主は明るく、かすがは安堵した。
白湯を淹れた質素な湯呑が縁側に置かれる。
「お飲みなさい。女人が身体を冷すのは良く無い」
静かだが有無を言わせない主らしい口調で謙信は言った。
かすがは一瞬断ろうか迷ったが、主手ずから淹れた白湯を固辞するのも反って悪い気がする。
「はい」
恐縮しながら手に取ると、冷えた掌に湯呑の温かさが心地良い。
息を小さく吹き掛けてから湯に口を付けたが、予想以上の熱さに思わず顔を顰めた。
その様子を見ていた謙信がクスっと笑って懐かし気に言った。
「似て居る」
一体誰に――?
かすがの胸の裡に巣くう不安が鎌首を擡げる。
(やはりそうだ。謙信様の中に私の知らない女がいる……!)
疑いは確信に変わった。
その瞬間、温かい湯呑の感触や熱かった白湯が一気に冷えた様にかすがは感じた。
謙信は独りおかしそうに笑う。
「誰かに似て居ると思っていたが、そうか…」
ひょっとして、否、その女こそ主を思い煩わせている元兇だという確信に足る感触をかすがは掴んだ。
今直ぐにでも件の女を引き裂いてやりたい激しい感情を包み隠して主の言葉を待つ。
「昔私には添おうと心に決めた人がいた」
(嫌、聞きたくない)
湯呑を持つ手が寒さ以外で細かく震えた。
かすがにとって主は今の主のままで充分だ。
下手に過去を蒸し返して幻滅したくなかった。
「とても健気で芯の強い人でした。いつも一生懸命で、深く私を慕ってくれた」
謙信は優しく笑い掛ける。それが辛くてかすがは目を伏せた。
「少々そそっかしい所もありました。今のお前の様に急いで白湯を飲もうとして熱がったり」
今も慕ってらっしゃるのですか、と言う言葉をかすがは白湯ごと無理矢理飲み込む。
「私達は若かった――若過ぎた。
 一目で激しい恋に落ち、譬え敵同士でも必ず一緒になろうと固く誓い合いました」
「敵、ですか?」
謙信は頷く。
「永く敵対していた北の領主の姫君でした。出合った時、私達は互いが敵とは気付かなかった」
どんな顔をして良いか分らず湯呑を覗くと、白湯の中に琥珀が溶けている。
(敵……)
ある面影が白湯に映った。
(だめだ、何を考えている!)
美しい主と語らう時は、あのヘラヘラしたユルい笑顔と馴々しい態度が癇に障る男の事など
記憶という記憶から消してしまいたい。
かすがは自分を叱咤してその影を振り払った。
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