保管庫


うたかた
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夕暮れが迫っていた。
幸村達が出陣してから半日以上が経過している。
中庭に立つ父の傍らに翠は久し振りにそれを見た。
背中の大きく開いた黒服を着た若い女の幻だ。
女は自分だけに見え、いつも後ろを向いている。
「父ちゃん一応隊長だろ?だから色々あるんだよ」
そう父が気遣う娘を丸め込む時、決って若い女は姿を現した。
父の傍らにそっと寄り添い、背や肩に手を置いている事もある。
小さい頃から何度も見て来たせいか怖いと思った事は無い。
今日女は父の背に取り縋っていた。静かにかぶりを振り、肩を震わせている。
翠は息を飲んだ。
初めて振り返ってこちらを見た女の顔は、驚く程自分に良く似ている。
(母さん?)
泣き顔のまま笑みを浮べ、父の肩をポンと叩くと女の幻は淡雪の様に消えた。
「翠か」
背を向けたまま父が呼ぶ。
「親父、今…」
「うん?」
父の手には母の形見の翡翠の簪が握られていた。
恐らく父は母に相談したい事があったのだろう。
母もそれに応えるべく幻となって現れたのではないか――翠はそう直感した。
「母さんに何話してたの?」
「色々さ」
「何か言ってた?」
父は肩を竦めて笑う。
「どうだろうな。でも傍であいつが聞いてた気がするんだ」
「誰か泣いてたよ」
「え?」
「黒い服の女の人が泣いてた。今親父の背中に抱き付いてさ、イヤイヤって」
父は簪に視線を落とした。
「そうか……」
顔を上げ宵の明星を見上げる。
「……そうか」
翠には父が寂しげに笑っている様に見えた。
「翠、若旦那を連れて阿梅様の元に行け」
父の口調は有無を言わせない忍隊長のものだ。
「これは大人がケリを着ける最後の大戦だ。
 お前や若旦那みたいな子どもに横槍入れられちゃたまらん」
ここで殉じるつもりだ――翠は分った。
「若僧を頼れ。父ちゃんの眼に適う男なんてそうそう居ないぞ」
佐助は父親の顔に戻り悪戯っぽくパチリと片目を閉じる。
「こんな所でお前を死なせたら母ちゃんに合わせる顔が無いからな。
 お前は忍じゃないんだ、好きに生きろ」
翠は唇を噛み締めた。
「うん」
佐助は頷くと翠の手に翡翠の簪を握らせた。
「嫁に出す時渡すつもりだったけど今渡しとくな」
両肩に手を置き改めて女房に良く似た娘の顔を覗く。
翠が生まれた晩を思い出した。


――見て、やっと生まれたわ。女の子よ
微笑む女房の隣に生まれたばかりの赤ん坊が眠っていた。
後産で傷ついた胎内の大きな脈から血が止め処も無く失われ、女房は血の気の失せた顔色をしている。
――名前は考えてくれた?
「うん。翠だ」
――みどり
青白い手が愛しげに生まれたばかりの娘の頭を撫でる。
――お願い、この子を忍にしないで。私の様な目に遭わせたくない
「分かってるよ。この子が大きくなる頃にはきっと戦も終わってるさ」
突然娘が甲高い声で泣きだした。
「ああ、重湯だな。ちょっと待ってろよ」
慌てて佐助は三和土に降りた。
――よしよし、翠。良い子ね。ほら、泣かないで……
「これじゃ温過ぎるか――」
重湯と手拭を持って振り返った時、楽しい夢を見ている様に微笑んだまま女房は眠っていた。
二度と覚める事の無い眠りだった。
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