保管庫


うたかた
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入梅も間近な頃、赤子を抱いて現れた佐助に幸村は仰天した。
先の遠征の直前に所帯を持ったが難産で亡くして鰥夫になったのだと言う。
「結局三月かそこらしか一緒に過ごせなかったよ。可哀相な事したな」
「後添えは貰わぬのか?」
「まだそこまで考えられなくてね。差当り乳母を雇って凌ぐさ」
佐助は子の母親に触れなかったが、長じるにつれそれが誰であるか明らかになった。
「翠は母親に良く似ておるな」
ある時幸村は幼い翠に言った事がある。
「幸村様は母をご存じですか?」
七つになった翠はびっくりした。
「ああ、良く知っておる。佐助から聞いておらぬか?」
翠は首を振る。
「そうか……」
それから数日後、翠は偶然男達の会話を耳に挟んだ。
「……しかしあれも母に益々似て来たな」
「あの忍も恐ろしい女と契ったものよ」
「まさか月下為君とは……。他の男なら死んでおるわ」
「誰ぞあの娘と契って朝まで首が繋がっておるか賭けぬか?」
「止めておけ。あの女の娘なら皆首を掻き斬られてあの世行きじゃ。賭けにならぬ」
「相違無い……」
男達が自分と母の事を話題にしている事は分ったが、何故母が恐ろしいと言われるのだろう。
母の事を尋ねると父はいつも同じ答えを繰り返した。
「顔も性格も皆お前にそっくりさ。翠は本当母ちゃんに良く似てるよ」
父は母を恐ろしいなどと言った事は無い。なのに何故男達はあんな風に言うのだろうか。
「げっかいくん」という耳慣れぬ呼び名と、あの女の娘なら皆首を掻き斬られてあの世行きだという言葉が翠の頭にこびりついて離れなかった。
「母さんって何をしてた人?」
夜、忍具の手入をしている父に翠は尋ねた。
「どうした急に?」
手を休めず父は応える。
「男の人達が言ってた。『恐ろしい女だ』って」
一瞬父の手が止まった。
「聞き違いさ」
「本当だもん。私は『げっかいくん』の娘だから皆の首を斬――」
突然父が拳で力任せに床を叩いた。
翠は驚いて黙る。こんな乱暴な父を見たのは初めてだ。
父は溜め息を吐いて暫く眉間に手を当て考えていたが、真直ぐ翠の目を見て話し始めた。
「良いか翠。母ちゃんの事をとやかく言う奴は多い。
 でも、連中が何と言おうと母ちゃんは誰より強くて優しい人だった――本当さ。
 嫌な事や辛い事を沢山乗り越えて父ちゃんなんかと一緒になってくれたし、
 命懸けでお前を産んでくれた。
 生きた時間は短かったけど母ちゃんは一生懸命生き抜いたんだ。
 その母ちゃんそっくりのお前も強くて優しい子だよ。
 父ちゃんが言うんだ、間違い無いぞ」
父が初めて語る母は男達が話していたものと程遠い。
だが翠は父の話を信じる事にした。
「でも怒った母ちゃんはおっかなくてなぁ。
 言付け破って父ちゃん忍術教えちまったからきっとあの世でカンカンだ」
慌てて翠は言う。
「私が怒らないでって母さんに言う。父さんは悪くないって」
「ありがとよ。母ちゃんお前には甘いだろうからきっと父ちゃん見逃して貰えるな」
父は翠の頭を撫でて悪戯っぽくパチリと片目を閉じる。
まだ翠が幼く、比較的世も安定していた頃だった。
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