短編

□Ein unersetzlicher Moment
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日曜の昼下がり、今日は部活も午前中に終わり、神尾達の誘いを断ってから愛しいあの人の元へと急いだ。

目眩さえしてしまいそうな程に暑い日差しが照り付ける中、文句ひとつ零さない自分に笑ってしまう。
まさか自分が、待っている間の時間を楽しいと思える日が来るなんて…。
こんな事、最初で最後だろうというのが何となく分かる。
何時愛想尽かされるかとも分からない不安を抱いて待っているのは、ライバル校だった青春学園の男子テニス部の部長、手塚国光である。
ついこの間付き合い始めたばかりで、まだ進展といえる程の進展こそないものの、手塚の隣は自分にとって何よりも心地良く、安心するものでした。
手塚に橘とは違う、尊敬ではない別の感情を持っている事を伊武が自覚したのは、手塚に告白するほんの数日前になります。
伊武は感情だけで突っ走ってしまった事に、後悔はありませんでした。

伊武「あ、手塚さ…」

待ち兼ねた相手がやって来るのを見つけすぐさま走り寄ろうとしますが、伊武の足は次の瞬間に強制的に止まる事になってしまいました。
何故なら、自分より先に手塚の視線を横取りした人物がいたからです。

リョーマ「部長、一緒に帰りません?」
手塚「越前…」

越前リョーマです。
1年にして青学のレギュラーを努め、多くの注目を集めています。

桃城「待てよ、越前」
海堂「部長がてめぇなんかを相手にすると思ってんのか?」

そう言って現れたのは、2年の桃城と海堂。二人は一年の頃から手塚を巡って火花を散らせていたというのは有名でした。
何やら手塚の周りはにぎやかになり、自分の入る隙はあっさりと他者によって奪われてしまいました。

リョーマ「部長は2人乗りなんかしないっスよ?」
桃城「なら押してきゃあ良いんだろ?部長!チャリンコは押しますから、一緒に帰りましょうよ?」
海堂「桃城が越前と帰りゃあ良いだろ?てめぇ等の我儘に部長を巻き込むんじゃねぇよ」
桃城「んだとぉ?マムシ!」
手塚「止めないか、お前達」

後輩の喧嘩は鶴の一声によって納まりましたが、伊武の中を支配しているモヤモヤとした気持ちは簡単には落ち着きそうもありません。
手塚はおそらく、後輩達と共に4人で帰る事でしょう。
用事も約束もない今、手塚が1人で帰らなければならない理由はどこにもありません。
あの3人だって、欲を言えば手塚と2人きりで帰れればそれに越した事はありませんが、納得するしないに関わらず、手塚と帰れればそれで満足なのです。伊武にはその気持ちが、嫌という程に分かりました。

全てを察した以上、ここにはいられません。
伊武は自分の存在を、手塚に伝える事なくその場を離れました。

伊武「手塚さん…」

家に帰ってからも、思い出すのは手塚の事ばかりでした。

―もう、家に帰っただろうか?

あの3人が手塚を黙って家まで帰すとも思えず、その期待はすぐに消え去りました。
もしかしたら、あの中の1人が他の2人をうまく撒いて、手塚と2人きりになっているかも知れません。
元々マイナス思考の強い性格でしたが、こうなれば不安は募る一方です。
次から次へと嫌な想像が続きます。

そんな中、携帯の着信が伊武の意識を現実へと連れ戻しました。

とても電話に出る気分にはなれず、舌打ちしたい思いで携帯を睨みつけましたが、その画面には、今し方自分が頭を抱えていた中心人物、会いたいけど会いたくない、恋人の名前を表示していました。

伊武「…はい、もしもし」

出るか出まいかと考えるより、伊武の手は自然に通話ボタンを押していました。

手塚「……伊武か?」

少し躊躇った様な声が遠慮がちに聞こえれば、伊武の心は愛しい気持ちで満たされました。

伊武「手塚さん、どうしたんですか?」

伊武は素直になれない自分が憎くてたまりませんでした。
手塚に会いたいと、ただ一言が伝えられればどれ程楽でしょう。
ここまで自分が嫌いになった事はありません。

手塚「その…今から……会えないか?//」

伊武は慌てて手塚の居場所を聞きました。
すると手塚は、重い口を開いてゆっくりと答えました。

手塚「お前の、家の前にいるんだが…」

伊武は半信半疑になりながらも玄関へ向かい、ドアを開きました。

手塚「…すまない。突然来てしまって」
伊武「…手塚さん、どうして……」
手塚「実は、さっきまで越前達と一緒にいたんだが…」
伊武「……」

伊武は堪らず目を逸らしました。
自分の手塚への気持ちは、迷惑でしかないのだという不安が過ります。
改めて、手塚が自分の気持ちと向き合って、伊武と別れて欲しいとでも言い出したら…。
伊武はどう答えて良いか分かりませんでした。

伊武「それで?」
手塚「それで、何故かは分からないんだが……お前に会いたくなった」

伊武は耳を疑いました。すると今度は、手塚が目を逸らします。顔が赤くなっている様に見えるのは、伊武の気のせいではない様です。

手塚「…というのでは…理由にならないか?//」
伊武「喧嘩でもしたんですか?」
手塚「いや、そうではない。楽しかった…と思う」

滅多に聞けないであろう手塚からの楽しいという言葉を、自分ではない他の人物が言わせているのだと思えば、伊武はジェラシーを感じずにはいられませんでした。

手塚「ただ、お前が…どうしているかと思ってな」
伊武「…楽しかったんじゃ、ないですか?なら、いちいち報告なんてしなくても良いのに」
手塚「?」
伊武「どうせ手塚さんは、俺より越前や青学の奴の方が大事なんだろうなぁ。それなのに俺の告白受けるんだもんなぁ。テレビとか漫画でよくある告白に驚いて知らない内に頷いてたっていうオチで終わるんだろうなぁ。…喜んで損した」
手塚「それは違う!」
伊武「!」
手塚「確かに、越前や青学の仲間は大切だ。だが、それとお前に対する想いとは別だ。お前の傍にいると、安心できる。何もせずとも、隣にいるだけで落ち着くんだ。俺は…お前が好きだから、付き合っているんだぞ?」
伊武「……」
手塚「お前が何を考えようと勝手だが、俺の気持ちは動かないからな」

―…何て人だろう。
この人は、何時だって自分の欲しい言葉をくれる
こんな自分を、好きだと言ってくれればそれだけで―…
それだけで、自分を好きになれる
嫌いだった自分を、好きにさせてしまうのだ

伊武「…それを聞いて安心しました」
手塚「?」
伊武「俺も…あなたが好きですから」

お互いに口下手で、思っている事を中々言えずに進展も遅い。
…そんな2人だけど、そんな2人でなければ分かる事のないそれは、何よりも最高のEin unersetzlicher Moment―かけがえのない瞬間―
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