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□つきのなみだ
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 彼はじっとあたしを見つめてきた。

 あたしは更に眉を寄せる。

 こんな人里離れた山頂で、泉しかないここに居て、どうして彼はそんな事を問うのだろう。

 彼も、それが目的で来たのではないのだろうか?


「貴方、この泉が何だか知らないの?」


 訊くと、知ってるよ、と答えが返る。


「ここは、月の涙の泉だ」


 そう。

 どんな子供だって母親に教えてもらえる話。

 文献だって残ってる、伝説。

 月が流した涙が、その真下に溜まって創ると言われている泉。

 そしてその泉の水は、どんなものでも治せる究極の薬になる。

 さっき、あたしの指先から傷を消したように。


「そうよ。だから、ここの水を持って帰りに来たの」


「どうして?」


「どうしてって……」


 何だかあたしは苛立ってきた。


「どうして貴方にそんな話をしなくちゃいけないの?」


「……知りたいから」


 彼は無表情に言った。

 そして、何の感情も浮かべないまま、黙ってあたしを見ている。

 薄気味が悪い。

 無視して立ち上がろうとして、あたしは足が痛むのに気が付いた。

 足の裏を見ると、やっぱり傷付いていた。

 血が滲む所か、赤と土に汚れて汚い。

 帰り道も同じだけ走るのだから、癒して行った方が良いだろう。

 思いながら、両足を動かして泉に浸す。

 冷たい水が心地良い。

 息を吐いて横を見ると、男の人の無表情な銀の瞳が、鏡のようにあたしの顔を映していた。

 無言の求めに、仕方なく口を開く。


「……あたしの姉さんが、病気なの」


「病気? ……何の?」


「知らない。あんな難しい名前、覚えられない」


 ただ、助からないという事だけが判った。

 父さんも母さんも涙を零して、そして姉さんを抱きしめた。

 あたしはそれすら出来ないで、お医者が出て行った後の扉の前に佇んでいた。

 姉さんは悲しそうな顔で笑って、そんな二人とあたしに大丈夫よと言った。

 何が大丈夫なものか。


「早くしないと、姉さんは月に行ってしまう」


 死者は皆天へと昇る。

 大人は太陽へ。

 子供は月へ。

 それはどんな子供でも知っていること。

 そしてもうすぐ姉さんは月へと向かって、そして二度と会えなくなる。

 そんなのは、嫌だ。


「だから、ここの水を取りに来たの」


 ここに本当に泉があるのか、それすら分からなかった。

 多分無いだろうと考えていたし、あったとしてもただの水だと思っていた。

 奇跡を呼んでくれるなんて思わなかった。

 でも、何かをしていないとやり過ごせない悲しみがあって、あたしは、小さな鞄と皮の水袋一つを持って走り出した。

 そしてこの泉を見つけた。

 しかも、泉は本物だった。


「これで、姉さんを治すの」


 あたしはそう言って彼を見た。

 彼は、無表情だった顔に一筋の心を滲ませていた。

 それは、とても悲しげだった。


「君は」


 彼の口が、ゆっくりと言葉を弾く。


「君は、どうして月が涙を落とすのか、考えたことはある?」


「え?」


 あたしはぱちくりと目を丸くする。

 あの伝説は比喩では無かったのだろうか。

 月は常に動きその位置を変えていることなど、月が昇り沈むのを見ればどんな幼い子供にだって分かる。

 だから月の真下などという場所が存在する筈がないし、何より月が泣く筈もない。

 けれど、彼はあたしの反応など気にした様子もなく続けた。


「月はね、寂しがってるんだ」


「……何、それ」




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