精霊シリーズ

□ぼくは、りかいした。
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 『チノ』だった。

 チノは、丘の上に先客が居ることに驚いたのか、目を丸くしたままそこに立ち竦んでいた。


「あの……」


 そっと、声を掛ける。

 すると、幼いその子は弾かれたように後退る。

 妙だと思って体の向きを変えると、その距離は更に開く。

 何かに怯えた、夜色の瞳。

 どうして?


『あの子は、分相応をわきまえているからね』


 ふと、ウテン様の言葉を思い出す。

 忌まわしいと称される子供。

 一体何人が、この小さな存在に汚い言葉を吐き掛けたのだろう。

 それはきっと、目には見えない部分をずたずたにするのだろうと、そう思って眉を寄せる。


「……こんにちは……えっと……チノ、さん?」


 でもきっと、俺よりはマシだ。


「ここ、気持ちの良い場所ですね」


 俺は微笑みを浮かべ、チノを手招いた。


「良かったら、こっちで一緒に座りませんか?」


 チノはかなり迷い、俺の誘いを断れずにおずおずと頷いて、ゆっくりとこちらへやって来た。

 その顔には戸惑いが浮かんでいる。あまり、こんな風に声を掛けられたりしないのかも知れない。

 じりじりと動いたチノがどうにか腰を下ろしたのは、俺から少し離れた位置だった。

 間に横たわる距離は、大人が三人並んで座れるくらい。

 きっとチノの譲歩だろうそれを縮めることはせずに、その距離越しに、俺はチノを眺める。

 チノは、かち合った視線の先で困ったように目を伏せて、それから慌ててスケッチブックを開いた。

 膝を立ててそこに立て掛け、小さなその指がクレヨンを取り出す。青いクレヨンだ。

 そして、それでスケッチブックに何かを描き始める。

 写生に来たのかと思ったが、どうやら違うらしい。

 チノの濡れた烏羽色の瞳は、白い紙面しか見ていない。

 チノはクレヨンを変えなかった。

 その手は何かを描いていたけれど、その動きを見ても、何を描いているのか分からなかった。

 手以外を動かさないチノから視線を外し、俺は草の上に横たわる。

 その分チノに近付いてしまって、チノがびくりと反応したのを気配で感じた。

 クレヨンが紙を擦る音が止まって、数拍経ち、そしてまた聞こえ出す。

 チノが握っているのは、青い青いクレヨン。

 それと同じ色の空が、俺の目の前に広がっていた。

 そこは広い。

 そして、深い。

 明るすぎるそれに目を眇めて、そして寝返りを打つ。

 草の潰れた青い匂いがして、けれどそれらはすぐに、風にさらわれて消えた。

 横倒しになった視界では、チノが絵を描いて居る。


「チノ……さん」


 そっと呼び掛けると、その手が止まった。

 戸惑いばかりを満たしたその右目が、スケッチブックの向こうから、こちらを窺った。


「チノ、さん」


 忌まわしいと叫ばれる子供。

 蔑まれた子供。

 ああ、でも。

 チノは『母親』を持っている。

 それは、とても羨ましい。

 転がったまま、こちらを見ているチノへと、手を伸ばしてみる。

 すると、チノは座ったまま、少し退いた。

 決して触れられたくないと、その瞳には怯えを湛えている。

 そのいたいけな様子に、更に手を伸ばすことは阻まれて、俺は手を下ろし体を起こした。

 すると、先程動いた分だけ、チノが体を戻した。


「チノさん」


 声を掛ける。

 チノは答えない。

 そういえば、一度もチノの声を聞いたことが無いと、ふと気付いた。

 もしかしたら、声が出せないのだろうか。


「……しゃべれないんですか?」


 率直に訊ねた。

 それに僅かに目を丸くしたチノが、首を横に振って否定する。

 そして、その白い手がスケッチブックを捲り、チノはクレヨンを黒に変えた。

 その手が、新たに開いた紙面に何かを書き、そしてこちらへとそれを向ける。

 そこには、文字が書かれていた。


『話してはいけないから』


 声の代わりのそれは、とても丁寧な書体だった。

 俺は、首を傾ぐ。
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