精霊シリーズ
□忘却の唇
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今日、俺達は<氷王>様のところに行かなくてはならない。
治療を得意とする水一族の中で、最も力の強いあの方の所へ、行かなくてはならない。
そうして、一ヶ月まともな治療をしていない身体の、あちらこちらに刻まれたもの達を消してもらう為だ。
もしも万が一、親父に見られたら、もしかしたら母さん達が責められるかも知れないから。
「風の精霊、呼ぶか」
館の敷地を抜けてから、俺はヒョウセツに尋ねた。
歩き方がおかしい。捻って、怪我をしているのかも知れない。
「別に要らねぇ」
呟いて顔を逸らしたヒョウセツは、けれどすぐにうめいて立ち止まった。
右足を庇っている。やっぱり、そこも怪我しているのだ。
俺はゆっくりと息を吐き、緋色のマントを外した。
そして、少し乱暴にヒョウセツを座らせて、その頭にそのまま、マントを被せる。
行きずりの人に顔の傷まで見せる必要は無い。
「おい?」
「いいから、顔隠せ。何も反論すんじゃない」
もがく異母弟へと言い置いて、辺りを見回した。
精霊達はみんな、それぞれこの世界で役割を果たして生きている。
水の精霊達なら傷を癒すし、土族の人々は食べ物や植物を育む。それに近い系統の人々は、それに近い事を。
そして、風の一族が担う仕事の端には、移動の項目があった。
広いこの世界で、他人や物を風に飛ばせてくれるのだ。
呼べば、近くを通りかかっていた風一族の誰かがやって来てくれる。
俺は、手頃な大きさの石を拾い上げた。
平たくて、掌より少し余る。左手の人差し指にだけ炎を灯し、それを押しつけて、焦げ跡で印を刻む。
風の意味を持つそれを焼き終えてから、もと在ったあたりへとぽんと投げ落とした。
こうすれば、少し置いてすぐに、風一族の誰かが来てくれるだろう。
振り返ると、ヒョウセツは素直にマントを被り、右足を押さえていた。
「足、痛いか?」
「……当たり前だろ」
「だよな。……他は?」
「顔。と、背中」
それから肩かなと、返された呟きに眉を寄せる。
ヒョウセツの母親は氷の精霊だ。黒くて艶やかな長い髪の、綺麗な人だった。肌の色も白く、清楚な雰囲気を持っていた。
あの細くてしなやかな腕が、どうして己の産んだ子供へ痛みを与える為に動くのか、と、その姿を見掛ける度に不思議に思ってしまう程で。
俺の母親とは違う、物静かなその瞳が、どうして其処まで激情を浮かべるのかと、不思議だった。
どうして親父が好かれるのか、それが全く分からない。
やれやれと軽く首を振った時、不意に、そよぐ風と共に声が落ちた。
「やあ、おはよう」
低い、男の人の物だ。
仰ぐと、そこには大柄な男の人が浮いていた。
風の精霊だ。
俺は、目を丸くした。
「……セイクウ様」
<風王>セイクウ。
風一族の長であり、<王>である、親父の親友の一人。
その人が、何故かそこに居た。
おかしいじゃないか、人や物を運ぶのが風一族の仕事だと言っても、それをするのは下っ端の役目のはずだ。
俺の視線にその疑問が含まれたのか、セイクウ様は微笑んで口を開いた。
「ちょっと、この子の散歩ついでにね」
セイクウ様の手が動き、そこに抱いていた小さな子供を見せる。
その子はきょとんと目を丸くして、俺を見下ろした。
「……ご子息ですか?」
「そう。フウキっていうんだ」
何処か嬉しそうに笑って、セイクウ様はその子を俺へと差し出した。そっと手を伸ばし、抱かせてもらう。
若葉色の、ふわふわした髪の毛。
大きな深緑の瞳。
突付きたくなる白い頬。
まだ歯も揃っているか怪しいその子は、知らない奴である俺に抱かれていても、泣きもせずにこちらを見ていた。
手に伝わる温もりに、そっと微笑む。
それに気付いて、小さな子供も笑った。