精霊シリーズ

□汚泥の掌
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 そう思って、鞄にクレヨンとスケッチブックを入れようとしたとき、突然突風が吹いた。


「……!」


 驚いて目を見開いた僕の手から、スケッチブックが風にあおられて飛ぶ。

 それは僕の後方、丘の頂上付近まで運ばれて、音を立てて落ちた。

 慌てて駆け寄り、それを拾い上げる。

 音が聞こえていないと良いけれどと、思わず丘の向こうへと目をやると、そちらに居たその人が、振り返った。

 ぱちくりと、目を見開く。

 土色の髪。赤い、燃えるような瞳。健康的な色の頬。

 その人は、多分僕と変わらない年の男の子で、僕はその顔を知っていた。

 この前、土手で怪我をしていた子だ。

 頭から血が出ていたけれど、今はもう大丈夫らしい。頭に包帯などは無かった。

 良かったと思いながら、それどころでは無いと胸の内で首を振る。早く、立ち去らなくては。


「あの……」


 そう思った時に、彼が口を開いた。驚いて、思わず後退る。

 それを変に思ったのか、男の子が此方へと体の正面を向けたので、更に一歩下がってしまった。

 不思議そうな目に、申し訳なさが胸一杯に広がる。

 だって、しょうがない。

 近付いて、侮蔑の言葉を投げつけられる方が、痛い。

 僕の胸の内を他所に、ふ、と彼は微笑んだ。

 その瞳に宿った光に、僕の体が戦く。


「……こんにちは、えっと……チノ、さん?」


 どうして、僕の名前を知っているのだろう。

 ウテン様に聞いたのだろうか。


「この間は、助けてくれてありがとう」


 彼が言う。

 別に、僕は助けたりなんてしていない。

 だって、僕が触ったら死んでしまうかも知れないのに。

 手当すらしていない。

 ただ、ウテン様にお願いをしただけだ。

 彼の笑みが更に広がり、その手が僕を手招きした。


「良かったら、こっちで、一緒に座りませんか?」


 そんな風に聞かれたら、困ってしまう。

 僕としては今すぐ逃げ出したいけれど、そうしてしまったら傷つくだろうか。

 更に嫌われるだろうか。

 どうしようかと迷って、結局断れずに、僕は彼の方へと少しだけ近付いた。

 彼から、大人が姿勢を崩して三人ほど座れる位の距離を開けた地点に、そっと腰を下ろす。

 これ以上近付いたら、彼が不愉快に思うかも知れない。

 何故か彼はずっとこちらを見ていた。

 その視線を感じながら、スケッチブックを膝に立てかける。

 そうしてクレヨンを取り出して、その中から青いクレヨンを手に取った。

 それで、スケッチブックの一カ所に、まず円を描く。

 それから、円を描くように、ゆっくりスケッチブックを塗りつぶしていく。

 時々方向を変えて、僕が其処に描いたのは空だ。太陽は色を形容しにくいから、とりあえずは青空から。

 そうしていると、ふと少し離れた位置に座っていた彼が、僕から視線を外し、ぱたりと草の上に寝転んだ。

 その分少し近くなってしまい、思わず肩を竦める。

 けれど、それ以上彼に動きは無く、別に意図した事ではないだろうと結論して、僕は止めてしまっていた手を動かした。

 青クレヨンが、白いスケッチブックに広がって空になる。


「チノ……さん」


 ふと声が掛けられたのは、空の絵があと少しで終わりそうになった時だった。

 絵と言っても、まだ青い色だけ。後は太陽だ。

 手を止めて目を向けると、彼は寝転んだままこちらを見ていた。

 その瞳はまっすぐで、ただ、純粋に光を放つ聖火の色をしていた。

 窺うように見てしまった僕に、彼は微笑みを浮かべる。柔らかく優しいそれに、僕は肩を竦めた。

 僕は、その類の態度が、一番苦手だ。

 とっても失礼なことだと思うけれど。


「チノ、さん」


 彼は僕の名前を繰り返し、寝転んだまま僕へと手を伸ばした。

 その指先が近寄ってくるから、僕は少し体を動かして、近付いた分だけ離れる。

 どうしてそんなことをするんだろう?

 触られたら、どうしたら良い。触って、嫌悪を浮かべられたら。

 初めから傷付けられると分かっていたら、それを避けようとするのは当然のことだ。
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