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□つきのなみだ
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月の伝説を知っていますか。
月の真下には大きな泉があって、
そこは全て月の涙で満たされています。
そしてそれらはどんな病にも効く万能の薬なのです。
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あたしは走っていた。
いつ脱げたかも分からない靴を探している暇なんて無かったから、裸足のままの足で走っていた。
尖った石が足の裏を切って、じくじくと痛む気がする。もしかしたら血が滲んでいるかもしれない。
でも、何度か転んだりもしたから体だって傷まみれだし、何より、立ち止まって傷具合を診る余裕なんて無い。
ただ、走り続けた。
息が苦しい。
どの位走ったか知れない。
倒れるように眠って、目が覚めたらまたすぐに走る。
そんなことを何回か繰り返した。
今は空が暗いから、多分夜だろう。
何日目の夜だろうか。
あたしが走っているのは、山の中だ。
道なんて見あたらない。
獣が何処かで休んで、梟がひっそりと鳴いている、そんな山の中だ。
そして、あたしはこの山の頂上を目指していた。
短いか長いかも分からない時間を費やして駆け上り、ようやく拓けた場所に着く。
眼前には、冷たい月光を弾く青い泉があった。
泉の上空には、満月。
「……あった……!」
思わず呟く。
蒼い碧いその泉に、あたしは近付いた。
屈むと、月光で照らされた水面に、泥などで汚れたあたしの顔が映った。
手を伸ばして泉の水に触れる。
ひんやりとしたそれは、まるでただの水のようだ。
恐る恐る、手を入れる。
指先には、何処かで草に刻まれた、小さな切り傷があった。
数秒置いて、何の感覚も無いのに肩を落として手を水から上げる。
やっぱり、あんな伝説は嘘だ。
思いながら指を見て、目を見開く。
濡れた指から、傷が全て消えていた。
「……本物……!?」
驚いた声は思ったより小さく、でも確実に空気を揺らした。
慌てて、もう片方の手も水に入れる。
その手の甲には枝で切った浅い傷が付いている筈だった。
けれど、少しして水から引き上げた時、あたしの目に映ったのは何の傷も無い綺麗な手だけだ。
「……本物なんだ……!」
信じられない事だけど、今あたしの目の前にあるのは伝説の泉だ。
あんまり嬉しくて泣き出したくなって、顔を歪めた。
体から力が抜けて、その場にへたり込む。
そして、震える手で背負っていた小さな鞄を下ろした。
中には、どれだけ転んでも割れたりしないように、皮の水袋が入っている。
中身は空だ。これから満たすのだから。
手を動かして袋の口を開け、袋を丸ごと泉に沈める。
いくらか空気の泡を吐いて、やがて袋の中は水で一杯になった。
それから引き上げて、慎重に、きつくきつく口を締める。
絶対に中身を零すことが無いように。
さあ、すぐに戻ろう。思いながら鞄に水袋を戻す。
早く戻って、それから。
考えながら鞄を背負ったあたしの上に、影が差した。
雲では無いものが月光を遮ったのだ。
振り返ると、あたしを覗き込むようにして、後ろに男の人が立っていた。
銀色の綺麗な髪を腰くらいまで伸ばした、とても綺麗な顔の男の人だった。
座り込んだあたしを映すその二つの眼も銀色だ。
彼は、ゆっくりと口を開いた。
「……君は、何をしているの?」
「……何って……水を汲んでるのよ」
見て判らないのかと怪訝な顔をすると、そうでなくて、と横に揺れる銀糸。
それから彼はあたしの横に屈んだ。
屈んでも、彼が背の高い人だと言うことは判った。
「この泉の水を汲んで、どうするの?」
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