精霊シリーズ
□悲しい記憶
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ふと気付いたその時、僕の頭の中身は真っ白になってしまっていた。
「……!?」
あまりにも驚いてとりあえず頭を前に振ると、がん、と酷い音がして、額に痛みが走った。
手をついた先にはそそり立つコンクリートの壁があって、目線の高さが少しひび割れている。
鋭く走った痛みがやがて引いていく感覚に眉を寄せながら、僕は溜息を吐いて目を閉じた。
見覚えのない風景に動揺して頭なんてぶつけてみたけれど、消え去ってしまったらしい数分前までの時間を思い出すことは出来ない。
これは、いわゆる記憶喪失という奴なんだろうか?
頭の隅で冷静な自分が呟いている。
たった一つのこと以外、僕は何も知らない。
それ以外のほとんどが空白だ。
自分が何処に住んでいてどんなふうに働いていてどうやって生活してきたのか、それすらも分からない。
それこそ、ほんの数分前に自分が何をしていたのか、それすらも。
僕が捕まえている事実は、たったの一つだけ。
僕の名前は『ヒル』。
意味も由来も、名付け親すらも知らない名前。
そんなものは何の役にも立たない。
「……ここ、何処なんだろ」
自分を落ち着かせようと、小さく呟く。
呟いたって答えをくれる相手は居ないけれど。
思いながら目を開いた。
視界が戻った所で、僕自身への変化なんてない。
「……どうしよう……」
とりあえず病院に行った方が良いのだろうか。
しかし、行き方すら分からない。
「……うーん……」
一体、どうすれば良いのだろう。
目の前のコンクリートに手を当てながら落ち込んでいると、ばたばたと慌ただしい足音が聞こえ出した。
足音がするのは、僕が今立っている小さな路地を抜けた先の通りの方だ。
目を向けたちょうどその時、僕の居る路地の前を、人が横切っていく。
紅茶色の綺麗な髪の毛をした、女の子だ。
その子は、何故か後ろを気にしながら走って行ってしまった。
その姿が見えなくなってすぐに、また何かが通り過ぎた。
真っ黒い服の男だ。
ああ、なるほど。どうしてあの子が必死に走っているのかを、僕は理解した。
追いかけられてるのだ。
「何だろ……変態さんかな?」
鬼ごっこと言うには緊迫している様子に、僕も駆け出した。
細い路地を抜け、軽快に運んだ足はすぐに男に追いついて、手を伸ばしてその襟首を掴み、引き止める。
「ちょっとちょっと、嫌がってる女の子を追いかけるのは酷いんじゃないの?」
言いながら僕の方を向かせる。前髪が長くて、そいつの顔はよく分からない。
「……ひぃっ」
そいつは目を見開き、とても短い悲鳴を上げて、それからもがいて僕の手を振り払った。
まるで化け物でも見たような顔をして、一目散に、来た道を駆けて逃げていく。
「……あんなに怖がるなんて酷いなぁ。僕、傷付いちゃうよ?」
むぅ、と頬を膨らませながら彼の背中を見送る。
「あの……」
ふと、小さい呼び声が、後ろからかかった。
それに振り向くと、息を弾ませた女の子が、その目を伏せながらこちらへ身体を向けていた。
紅茶色の髪は長くて、多分彼女の腰くらい。
着込んでいる服は、クリーム色のキャミソールに焦げ茶色のカーディガン、それにぴったりしたデニム生地のパンツ。
顔立ちは、変態さんが追いかけるのに納得するくらい、可愛らしい。
何処にでも居る普通の女の子だ。
まあ、女の子と言っても、多分もう大人だと思う。
でも、お姉さんと呼ぶには違和感があるから女の子。
彼女は、その呼吸を整えながら、僕から目を逸らしたまま、口を開く。
「……助けて、くれて。どうもありがとう」
ゆっくりとお礼の言葉を贈られた。
僕は、出来るだけ優しく笑えるように努力して、口の端を持ち上げる。
「ドウイタシマシテ! 女の子をあんな風に追いかけるなんて、変態さんじゃない? 世の中恐いよねぇ」
言いながら肩を竦めて、それから、そういえば、と彼女の顔を見つめる。
「ね、どっこも怪我はしてない?」
「ええ、あなたのおかげで何処も……って、ちょっと!」
頷いて、やっと僕の方を見た彼女は、そのまま目を見開いて声を荒げた。
正確な左右対称に近い、可愛い顔をしていた。
琥珀色と茶に二分割された虹彩の、不思議で綺麗な瞳をしているなと、ぼんやり眺める。
その目に映るのは黒髪で赤眼の『僕』の顔だ。左目の下に泣きぼくろがある。『僕』は泣き虫かも知れない。
彼女の手が伸びて、僕の左手を捕まえた。
「あなたの方が怪我してるじゃない!」
「え?」
言われた言葉に僕の方が驚いて、見つめられている額を右手で撫でた。
ぬるり、と指が滑って、ああ血が出てたのか、と気付く。痛くないから気付かなかった。
「んー……気にするほどの事じゃないよ。痛くないし」
呟きながら額を擦っていると、何馬鹿言ってるの! と声が上がった。
そして、血で汚れた方の手も捕まれる。
「すぐそこだから、私の家に来て!」
「え? どうして」
「いいから! 手当てさせなさい!」
言いながら、彼女は僕の両手を捕まえたまま歩き出した。
ぐいぐいと引っ張られながら、大丈夫なのに、と呟くと、更に怒られた。
強引な子だなぁ、なんて。
それが僕の、彼女に対する第一印象だった。
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