精霊シリーズ

□災厄色の髪
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 忘れた事など 一度も無い


 泣き叫ぶ声も


 たった一度だけ見た あの人の笑顔も



+++



 土を踏み締めて、夜空の下を歩いた。

 風が穏やかに吹いて、暗闇の中で花達を揺らす。

 空には月がいたけれど、その光は弱々しくて、俺の影を僅かに大地へと縫いとめるくらいしか出来ていない。

 さて、何処まで行こうか。

 俺は立ち止まり、周囲を見回す。

 後方には、レイカが眠る小さな家。

 前方には広がる花畑と、暗い森。

 左方と右方も大体同じ。


「どっちも同じか……」


 ふぅ、と息を吐きながら呟く。

 その時、不意に吹いた風に乗って、小さな唸り声が聞えた。


「え……?」


 思わず、耳を澄ませる。

 先程よりも強く、それが聞える。

 低く、小さな、唸り声。

 人の姿をしたものが発しているとは思えない、声。


「何だ……?」


 呟いた俺は、声が聞えてきた、前方の森の中へと足を進める事にした。



+++



 深夜の森は、異様なまでに光を通して明るく、そして酷い匂いに満ちていた。

 顔を顰めながら、足を止めて、前に立つ影を睨む。

 森に入ってすぐに、俺は、先程の奇妙な唸り声の主を見つけた。

 それが、目の前にいる奴だ。

 月が、星と一緒に懸命に、俺とそいつを照らす。

 そいつは、魔物だった。

 そして、本で見たり、炎の精霊達が倒し連れて来たりする奴よりも、巨大に見えた。

 どうしてこんな所にこいつが居るんだろう。

 中界で魔物を見たという話なんて、聞いたこともない。

 レイカだって、一言も言わなかった。

 だから、居ないんだと思っていたのに。

 けれど、目の前にいるこいつは、現実に存在している。

 ぐるぐる、と魔物が唸る。

  俺の五倍は軽くあるだろう体を、鳥のような鋭い爪のある足で支えている。

 体自体を覆っているのは獣みたいな毛皮で、顔はひひのみたいだ。

 両の肩から垂れ下がる2本の腕は大地に付くくらいに長く、背中には、出来そこないの虫の羽が生えている。

 そして、そいつの体全てから、腐りかけた魚みたいな、嘔吐を誘う悪臭が放たれていた。


「……くそ……っ」


 匂いに慣れない鼻に舌打ちしながら、周囲の木々へと呼びかける。

 魔物を抑えてほしいという俺の願いに、眠たげな動きをしながらそれでも木々は応えてくれた。

 木のつるが、四方八方から目の前の魔物へと伸び、巻きつき、捕らえる。

 けれどすぐに、巻きついたつるは黒い色へと変色し、腐ってぼろぼろと落ちていった。


「っ!」


 驚いて見開いた世界で、目の前に立つ魔物が長い手を振りかぶる。

 それは鞭のようにしなって俺へと放たれ、左の頬に酷い痛みを感じた時には、頭が大地へめり込んでいた。

 くらくらする。

 体の上に、重みが与えられた。踏まれてると気付いた時には、体がきしむような力が加えられて、口から無意味に息が吐き出される。


「っは……うぅ!」


 口から思わず吐き出した唾には血が混じっていた。頬を打たれた時に口の中を切ったらしい。

 痛い。

 激痛だ。

 手の先がしびれて動かない。

 俺の上で、魔物が雄叫ぶ。

 どうしよう。

 どうしたら良いんだろう。

 どうにか、しないと。


「……レイカ……!」


 花畑の中央にある小さな家の中で眠る、小さな俺の異母妹。

 もしも俺が、ここで、こいつに殺されたら。

 次は、レイカだ。

 そんなのはいやだ。

 耳の奥で、心臓の音が鳴っている。他の音を掻き消すような大きな音の鼓動が聞える。

 しびれて痛む体の隅々まで、ざわざわと漣のような感触が広がっていく。

 目の前には、真っ赤だ。

 体を突き動かしたのは、怒りにも似た恐怖だったかも知れない。
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