精霊シリーズ
□拒位逃亡
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書庫の扉を開くと、ランプがついていた。
俺や兄上が昨日来たのは昼間だったし、その時はランプなんてつけていなかった。
なのに今ランプに灯があるということは、すなわち中に誰か居るということだ。
「母上?」
そっと、声を掛けながら扉を閉める。がちゃりと、中に入った者を逃さないとでも言うように、大きな音が鳴った。
ここは父上の書庫だ。
けれど、父上がここにいることはほとんど無い。
『お仕事』以外の仕事もたくさんあって忙しいからか、それとも他の理由だろうか、とにかく父上はいつも、自室に籠もりっきりだ。
何か資料が必要なら、母上に申し付けて取りに行かせている。
だからきっと母上だろうと、そう当たりを付けて本棚の奥の方へ近寄った俺へ、きらりと光る何かが近付いた。
「……う、ぐ!」
驚いたのと痛いのとうめいたのは、同時だった。
ゆっくりと、下へ視線を下げる。
俺の胸に、鉄で出来た刃物が突き刺さっていた。
赤い血を伝わせるそれを、ゆっくりと見つめながら辿っていく。
薄暗い部屋の中で、ランプの光に照らされて、俺へ刺した剣を持っているその人は立っていた。
黒い髪と、金色の二つの眼。鏡で見る自分の顔に、少し似た大人。
「……ち、ち……うえ……?」
呆然と、その人を呼ぶ。
いつもなら、ここにはいないはずなのに。
父上は、何故かすごく真剣な顔で、その手を捻った。
薄く平べったい剣の向きが変わって、俺の胸にあった傷口が抉られる。
強烈な痛みに耐えられず、俺は膝を折った。
ずるりと、刃物が抜けて、俺は床へ転がる。
痛い。
痛い痛い痛い。
俺は死んでしまうのだろうか。
思いながら視線だけで見上げた先、立っていた父上が、手にしていた剣を消した。父上の力で出来た剣だったのだ。
ああ、死ぬんだな。俺はそう認識する。
この世界はすごく変わっていて、数多の魔物が居るというのに、その魔物達は闇の精霊を殺せないように出来ている。
その精霊同士でも、弱い者が強い者を殺すことは、決して出来ない。
更に言うなら、俺の父上である目の前のその人は、この世界で最も強い者しかなれない、<王>だ。
俺は父上よりも弱い。
だから、魔物は俺を殺せなくても、父上は俺を殺せるのだ。
痛い。
痛い痛い痛い。
とてつもなく、傷が痛かった。
熱くて、まるで焼けるようだ。
血の錆びたにおいが、書庫特有のかびたにおいに混ざっていく。
しゅうしゅうと、どこかで奇妙な音がする。何かが溶けているような、変な音。
「……ちち……う、え」
俺は、いまだ真剣な目で俺を見下ろしてくるその人を見つめた。
どうしてこんなことをするのだとか、俺はもう死んでしまうだろうから良いけれど兄上や母上には止めて欲しいとか、多分そんなことを言いたかったのかも知れない。
けれど、俺が言葉を吐くより早く、父上が笑い出した。
「……クックックックッ」
まるで狂ったように深く、父上の顔に笑みが刻まれる。
生まれて初めて、父上のそんな表情を見た。
驚き目を丸くする俺の前で、父上が屈む。その長躯が、窮屈そうに折りたたまれた。
「素晴らしい、実に素晴らしいぞダール!
お前が『そう』だということは、ダークも『そう』か!? ならば更に素晴らしい、そして喜ばしいぞ!
クックックックッ……ギャハハハハ!!」
一体何のことだろう。
そう思いながら、俺は胸の痛みがゆるゆると引いていくことに気が付いた。
そっと、手を動かして触ってみる。
血で少し濡れている。服が破けている。
けれど、それだけだった。
「……治って……いる?」
呆然と呟く俺の横で、まだ父上は笑っている。
何がそんなに楽しいのだ、と問いたくて視線を戻した先で、父上は立ち上がっていた。
床に転がったままの俺を跨いで、そのままその姿は扉の方へ進んでいく。
「喜ばしい……実に素晴らしい日だ、今日は! やっと、俺はここから離れられる……! この世界から逃げられる!」
叫ばれた言葉は、意味不明で。
呆然と見送る俺の前で、父上は書庫を出て、扉が閉ざされた。
「……父上?」
静かになった書庫で呼び掛けても、答える人は誰も居ない。
俺は、ゆっくりと起き上がり、自分の胸を確認する。
やっぱり、傷はもう無かった。
「どう、して……」
小さく呟く。
何だか、言いようのない不安が心を蝕んでいた。
ここから逃げなくてはいけない、気がした。
けれど、逃げて何処に行くのだ。
この世界はルーズ・キャール。
広大で、けれど限りのある世界。
他の世界へ行く方法は知らない。
逃げる場所なんて、無い。
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