指先

□日没までには終わる散歩道を
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「僕は、過去にすがる人間は好きじゃない」

語った。滑るように唇から零れてくる言葉を止めることができなかった。常から平静を保つ心はその時ばかりは、揺らいだ。

「過去なんていくらでも捏造できる。空想や妄想と同じさ、自分に都合のいいように書き換えられた過去の記憶にすがって生きる人間なんて生きているとは言いがたい。必要なのは現実、そして未来への足がかり。だからこそ僕は、…いや、それは今話すことじゃないな」

すらすらと語る声はしかし暗い廊下には驚くほどに響いていなかった。すとんとその場に落ちるような響かない声。声が響いて見回りの教師に気がつかれないよう、事前に魔法をかけていたのだが、彼女は気づいていなかったしきづいたとしても気にはしなかっただろう。
話の途中に口ごもれば彼女は小さく首を傾げたが、追求することもなく口を開いた。

「貴方は自分の過去がそんなにお嫌い?」
「うるさいよ」
「気に障ったのならごめんなさい」

リドルは申し訳なさそうに謝る彼女から視線を外した。その先には真っ暗な廊下しかなかった。見透かすような彼女の言葉が怖かった。



絵画の彼女と対話をするようになったのは二週間も前からだ。あの日あの夜、彼女とコンタクトをとってからほぼ毎晩、草原の春、その絵画のもとへと足を運んだ。何故だったのかは自分でもわからない、ただ吸い寄せられるかのように彼女のもとへと通う自分に、因果のようなものを感じずにはいられなかった。
彼女の、『草原の春』の作者は彼のホグワーツ創設者の一人、サラザール・スリザリンその人であった。彼女と出会って三日目の夜、彼女がこぼした言葉の中から拾い上げたその人の名は、聞き過ごすには余りにも自分の興味を引きすぎた。
瞳が彼の人に似ていると彼女が、その時ばかりは幸せそうに彼女が語った。どうでもいいと思ったが、話をする時間が増えれば増えるほど、彼女がこちらの瞳を見て語りかける度に吐き気がした。この赤い瞳を通して、彼女はいったい誰をみているのだろう、聞くまでもない。愚問だ。

「この草原、きれいでしょう?」
「まあ、ね」

肯定するのは少々癪ではあったが肯定せざるを得ないくらいには、すばらしい絵だった。昼の日差しには照りつけるような痛々しさはなくまるで包み込まれるような柔らかさに満ちている。その光を受ける春の草原、植物のなんと瑞々しいくも淡い色合いだろう。波打つ新緑の草木に薄い色の花々からは今にも草原の風が香りを運んできそうな躍動感を感じさせられた。

「私にはね、この草原に行った記憶はあるの」
あ、絵の中じゃなくて実際の草原よ。と注釈を入れてから彼女は続けた。
「でも、この草原に行った過去は、私にはないの」

草原にしゃがみ込んだ彼女は愛おしそうな仕草で原を撫でた。確かに其処にあるものを確かめるように時折、葉を指で摘まんでは弾いて見せた。その表情は春の暖かさを宿したまま、寂しそうに歪んだ。

「所詮私は、《私》という人間を模写した薄っぺらい絵画でしかないの。紙に書いた絵に人間の記憶が宿っても、それは人間には成り得ない。私を描いたあの人はすごく優しい人だったわ、でもすごく残酷な人。《私》を描いて、額縁の中に残される私のことを思いもしてくれない。私も、同じ記憶をもった《私》なのに。ただ額縁の中にいるというだけであの人は私を愛してはくれなかった。人として愛してはくれなかった」

ついに俯いてしまった彼女の顔は額縁の外にいる僕からは伺えない。しかし草を撫でていたその手だけが彼女の心情を表わすかのように固く握りしめられていく。不意に、彼女に触れたい衝動に駆られた。頭を撫でてやりたいような、背中を抱きしめてやりたいような、あるいはその頬を張り飛ばしてやりたいような。
こちらの渦巻く衝動を破壊するように、彼女が声をあげた。

「耐えられなかった、あの人が私を見る目が。それがどんなに優しい目であっても、あの人の目は絵画を愛でる目でしかなかった!絵の中の私を通して、人間の《私》しか見ていなかった!」

こちらを怒鳴る様に叫ぶ彼女の顔は酷く歪んでいた。それは春の温もりに隠していた彼女の本心だったのかもしれない。眉間にしわをよせ、涙すら微かに浮かべたまま彼女は尚もつづけた。

「私を見ていながら、あの人の愛はすべて私を通り越して私じゃない私に注がれていた」

君も、同じことをしているじゃないか。そう、僕を見ていながらこの赤い瞳を通り過ぎて過去しかしていない彼女に、怒鳴りつけたい衝動が湧き上がるのを、ひたすらに耐えた。苛立ちと焦燥と諦めがこみ上げる、握った掌は固く、爪が食い込んで痛かった。その痛みが辛うじて理性をとどめていてくれる。

「私には記憶という過去しかないの。時間の進まない額縁の中で、この先なんて、未来なんて望めない」

シンと静まり返った廊下に、彼女の声は恐ろしいほどによく映えた。
ああ、彼女はなんて、なんて身勝手な、かわいい人だろう。そう思えば、言葉は自然とこぼれた、こぼれていた。

「甘えるな」

唇から零れたのはその一言だけだった。今の僕はどんな顔をしているのだろう。放った言葉の響きは冷たかっただろうか。鋭かっただろうか。瞬間、彼女は目を見開いて僕を見つめ、顔を歪ませると身を翻して額縁の影へ走り去って行った。ひらりと舞ったスカートの端が、まるで悪戯な風に散った花弁のようだと思い、場違いにも見惚れた。
ああ、間違えた、間違えてしまった。甘えるな、そう思ったことも事実。しかしそれだけではない、それだけではないのだ。こんな突き放すような言葉を伝えたかったわけではないのに。思い出にばかり耽る彼女に伝えたかったのは、ただ伝えたかったのは、自分自身にも理解できていないまるで衝動のような欲求。
過去ばかりではなく、前を、目の前を、ただ目の前にいる、ああ、目の前の僕を。

どうか、この僕を見てはくれまいかと。

日没までには終わる散歩道を
2009.02.20



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