指先

□美しものを探しているのです。
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世界は美しいのだそうだ。

 
部屋の右上の角に蜘蛛が巣を作っていた。廃墟のような、いや、廃墟であるこの建物には違和感なく溶け込むその蜘蛛の巣を、私は排除しようとは思わない。瓦礫と埃と塵に塗れた廃墟ではあるが、それでも人が住んでいる。私と、数人の仲間。とはいえ、仲間のほとんどが時たま足を運ぶだけであとは集会や宴会に広間を使うのみであり、住んでいるといえるのは私だけではないだろうか。そう、言ってしまえば、この廃墟は私の城なのだ。その城に巣をはる蜘蛛はある種、同居人と言えよう。
廃墟という名の城の一室、私の自室の右上にはられた巨大な蜘蛛の巣。その巣には巣の大きさに見合った、それはそれは大きな蜘蛛がいる。グロテスクな黒い身体から伸びる八本の足は長い。粘着性と柔軟性を兼ね備えた白く細い糸で編まれた巣は繊細な模様を描き室内灯に照らされてかすかに輝いた。そんな豪奢な玉座の真ん中に、蜘蛛は鎮座していた。王者の風格すら漂わすその蜘蛛は、今まさに獲物の捕獲真っ最中だ。部屋にささやかに燈る明かりから発せられる紫外線に引き寄せられてきた小さな蛾が、巣に引っかかっていた。もがけばもがくほど絡まる白い糸と弄ぶように繰り出される蜘蛛の足。力の差は歴然であり、蛾の行く末は考えずとも目に見える。
このような状況下、人とは捕食者である蜘蛛ではなく、食われようとしている蛾に同調し、哀れに思うのだそうだ。何故だろうと私は考える。人が焼肉を食べているとき、ステーキに同情する人間はいないのに、何故目の前での狩りを見ると被捕食者を哀れに思う。自らもその食物連鎖の過程の中で食物を口にしているというのに。弱肉強食、それは世の理。あらゆる生命が生きていく過程の根底に存在する最も単純な揺ぎ無い条理だ。
本を片手間に読みつつもそんなことを思っている間に、玉座の彼の狩りは終了を迎えていた。蜘蛛の糸にがんじがらめになった蛾の末路、ではなく、威嚇するように翅をばたつかせ燐粉を撒き散らす小さな蛾。威嚇に怯んだ蜘蛛の足が離れた瞬間、数本の糸を絡めつかせた蛾が、巣から離れベッドに座る私の足もとに落ちてきた。絡まった糸が外れないのか床を這いつくばりながらもがいている。煌く糸に燐粉が飛び散る。

「詰めが甘い」

蜘蛛に向かってか、蛾に向かってか、自分でも分からない一言を放ってからベッド脇のサイドボードに置かれていたペーパーナイフを手に取り投げやった。無造作に放った潰れた刃のナイフは、それでも小さな命を一刺しにするには事足りた。二、三度蠢いた蛾は数秒後には事切れた。なんとあっけのないこと。生命活動を停止した骸をナイフの先に刺したまま床から引き抜き、今度は部屋の右角へと放つ。数本の糸を切り蜘蛛の巣の横に刺さったナイフの先には蜘蛛の獲物。食物を得た蜘蛛は八本の足を器用に用い、巣から落とさぬように糸でくるんでいく。
小さな狩りの終わりに部屋の静けさが戻る。手に持っていた本に目を戻せばページに蛾の燐粉が掛かっていた。本を片手ではためかせて床に振り落とせば明かりに照らされた粉が舞った。見目は良いが床が汚れてしまった、掃除をしなければ。

「何をしている」

ばっさばっさと本を振っていたら背後から声が掛かった。振り返れば黒いコートを着た黒髪の男が窓から入り込んできた。大きくもない窓である、なんとも器用に身を捻らせて進入する姿からは隙をうかがえない殺気が放たれていた。咎めるような響きを持ったその声を発した主の視線の先には私が無造作に振っている本があった。

「汚れたから、掃ってるの」
「もっと丁寧にできないのか」

叱られた。私は素直に本を振るのをやめ、自らの手でページに微かに張り付く粉を掃った。本は綺麗になったがかわりに私の指先に燐粉が張り付いた。黄色がかった粉がついた爪をみて嫌悪感が背筋を伝う。

「汚れた」
「綺麗じゃないか」

素直に言うことをきいた私に機嫌を直したのか、男は殺気をしまって近づいてきた。お前の白い指先につけば燐粉も金粉のようだ。と私の手をとって気持ちの悪い台詞を吐いた。見目がどうであれこれは蛾の粉だ、汚いことに変わりはない。

「貴方の目で見ればどれもこれも美しいものに見えるんでしょ」
「そうだな、世界は美しいもので溢れている」

男は言い放った。彼は美しいものが好きだ。気に入ったものを収集しては愛で飽きたら売ってまた新しいものに手を伸ばす。
彼曰く、世界は美しいのだそうだ。私はそれを、まだ実感したことがない。住処は快適とはいえ汚いし虫は入ってくる。仕事帰りの仲間は血に塗れていて鉄臭いし、滅多に風呂に入らないやつもいるのでそいつは純粋に体臭がきつい。奪ってきた獲物は光輝いていたり珍しい色だったり形だったり歴史的に価値のあるものだったりするがそれを美しいと思える感性を私は持ち合わせていなかったし、仲間のほとんども美しさには興味がないようだった。頭である男が愛し、美しいと評する文章も理論も、私は賢くないので理解ができない。

「貴方の目が欲しい、そうすればきっと世界が美しくみえる」
「目をとっても意味はないだろう、目はカメラのレンズでしかない、感じるのは脳だ」

馬鹿だな、もっと勉強しろ、本を読め、と男は言う。だから暇を見つけては本を読むが興味がないから覚えられない。

「じゃあ貴方の脳が欲しい」
「そしたら俺は死んでしまうな」
それはイヤだ、と漠然と思った。
「今、それは嫌だと思っただろう」
「なんでわかったの」

すごい。彼はとても頭がいいから、私なんかと比べ物にならないくらいに本を読んでいるし理解している、そこからさらに論理を展開することだってできる。だからきっと人の考えていることも読み取れてしまうのだ。

「お前は蜘蛛の巣だから、蜘蛛がなくなるのは嫌だと思って当たり前だ」

なんせ巣を構成する糸は蜘蛛が作り出しているのだから。そう言われてなるほどと思う。他の仲間の誰がかけても嫌だと思うし、欠けたらきっと悲しいのだろう。そして、もしも欠けてしまってその後新たな足が入ってきたとしたら、きっと嬉しいのだ。そう思うことが正しい。蜘蛛を愛おしく思うのは当たり前なのだと私の単純な思考でも理解できた。
蜘蛛は親であり、巣である私は彼らにとって帰りを待ち続ける母でなければいけないのだそうだ。聞かされたとき、可笑しな話だと思った、親である存在の母になるなどできるはずもないのに。

「よく分からないけど、つまり団長は私の心が読めるんだね」

やっぱりすごい。と呟いたら「お前はもう少し考えることを覚えろ」と頭を小突かれた。
考えることは嫌いだ。知らないことは本を読めばのっているし、理解できなければ彼に聞けば教えてもらえた。それでも理解できないことは考えなくてもいいことなのである。理解できなくて困ったことは今までないし、理解できずとも生きていける。本を読んで勉強することで、世界はとても単純にできていることを私は学んでいた。難しく考えることはないのだ。

「お前の脳はおそらくとても綺麗だろうな、ツルツルで」
「へえ、私の脳は美しいんだね、欲しい?」

彼は美しいものが好きだ。私の脳が美しければ彼は欲しがるのだろうか。

「そしたらお前が死んでしまう。それに俺が言ったのは嫌味だ、皮肉だ、真面目にとるな、理解しろ」

ほら、理解しろ、また言った。

「じゃあ嫌味を勉強するための本を頂戴」

今度用意しておこうと言われた。呆れられたような口調だったので何か可笑しなことを言ったかと自分の台詞を反芻してみたが特に可笑しな点はなかったのでおそらく気のせいだったのだろう。

「ところで今日の獲物はどこ」
「下の広間に広げてある。大量だぞ」

嬉々として言う。先ほどから階下の方で人の声がする、帰ってきた仲間たちの声だ。二階分上のこの部屋にまで聞こえてくるほどなのだからよほど大きな声で叫んでいるのだろう、一仕事負えた後の宴会でもしているのかもしれない。それに、よく見れば室内の明かりに照らされた男の手は微かに赤い血で汚れていた。汚い。服にも返り血だろう、所々に赤い染みができていた。あれは洗濯しても落ちにくそうだ。男の姿をそんな風に評価していた私に、彼は懐から取り出したものを投げ渡した。

「今日の獲物だ、下にも沢山あるからあとで持っていけ」

渡されたそれを両手で受け取り見てみれば、それは丸い球体だった。水分量の高そうなぶよぶよとした弾力のある感触のそれは、大きさから言って大型の動物の眼球。虹彩が血のように赤い眼だった。視神経の繋がる毛細血管からはまだ血が滴っておりいかにも取り立てほやほやである。

「汚い」
「綺麗だろう」

どこがだ。指が食い込む柔らかな感触は気持ちが悪いし、触った所為で血が手についてしまった。赤色の虹彩はまるで血のようで汚らしい。

「色が、鮮血よりも血の色をしている。世界七大美色の一つだ」

彼にとっては血のような色が美しいと感じるらしい。世界を美しいと感じる感性は、中々にグロテスクなのだと知った。これを理解するにはまだ知識がなりないようなので今度その七大美色とやらについての本を読んでみることにしようと思う。

「さあ、広間に行くぞ。お前がこないと酒がどこにしまってあるのかも分からない」
「うん、ねえ、団長」

ベッドに腰掛けていた私の腕を引いて立ち上がらせる。私が立っても、彼の胸の位置までしか私の頭は届かない。そんな彼を見上げて呼びかければ、何かと問う視線でもって見下ろしてきた。天井からの明かりの所為で彼の顔が暗く沈む。逆光。

「おかえりなさい」
「ああ、ただいま」

彼は答えた。この廃墟は、この城は、私の城であって彼の家ではないけれど。彼はここに住んではいないけれど、私がいるところが彼らの帰る場所なのだそうだ。そう言われた、彼がそう言ったのだからそうなのだろうと、理解はしていないが漠然と納得した。

「後で他の奴らにも言ってやれ」
「うん」

私は十二本足の蜘蛛が住む巣。仕事はアジトの管理と獲物の保管。巣の役割としては真っ当なものなのだと、これだけは理解している。

美しいものを探しているのです。
2009.02.14

 

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