原田 左之助


天保11年〜明治元年5月17日
(1840年〜1868年7月6日)

新選組十番隊組長。
伊予松山藩出身。
諱は忠一。谷三十郎から種田流槍術を教わり免許皆伝。
伊予松山藩の中間だったが、のちに脱藩。少々、短気な人物であったようで、ある武士と喧嘩をして「腹を切る作法も知らぬ下司め」と言われ、腹を切って見せた。傷は浅かったので命に別状は無かった。その傷から、「死損ね左之助」と隊内でアダ名されたようである。腹に一文字の傷が残ったが、天気の良い日には傷を日にさらしながら「てめぇたちのようなヤワなとは違うんだ。俺の腹は金物の味を知ってるんだぜ」と言っていた。これを元に家紋を○に切腹傷の一文字を入れた形にした。 しかし、その反面、愛妻家であったともいわれている。また、かなりの美男子だった。永倉新八とは仲が良かったようだ。 また、かなりの暴れん坊だったこともあり、酒を飲んでは腹の傷を自慢したり、大声で「切れ切れ!」と叫んだという。 長州の間者だったという楠小十郎を背後から斬り殺して「あぁ、良い気持ちだ」と言って笑っていたので、あとで近藤に酷く叱られた。
近藤勇の江戸道場、試衛館以来の生え抜き隊士で十番隊組長となる。種田流(または宝蔵院流)の槍の名手として知られた。副長の土方歳三は、一番隊の沖田総司と十番隊の原田左之助を信頼して、よく使ったという。殿軍の組長として十番隊を指揮し主だった新選組の戦闘には原田の名が必ずあり活躍している。(芹沢鴨一派の粛清、長州の間者・楠小十郎斬殺、大阪西町奉行与力・内山彦次郎暗殺、池田屋事件、禁門の変、三条制札事件、油小路事件など)一時は、坂本龍馬暗殺の下手人として疑われたが(暗殺現場に落ちていた鞘を伊東甲子太郎が原田の差し料と証言したため。また、下手人が伊予の国訛りの言葉(「こなくそ!」)を発したのを聞かれたため)実際は龍馬暗殺と新選組とは関係がなかったといわれている。(京都見廻組であるとの説が有力)
鳥羽・伏見の戦い、甲陽鎮撫隊まで新選組として戦いその後、永倉新八と共に靖兵隊結成。だが、なぜか江戸を離れてから用を思い出したと江戸に戻って彰義隊に加入、上野戦争の傷が癒えず、明治元年5月17日に死亡する。享年29。(何故か隊の名簿に原田の名が無い)
異説があり、日清戦争のときに松山で昔語りをする老軍人がいて「私は原田左之助だ」と名乗ったと伝わっている。原田は上野、新潟、下関、釜山を経て大陸へ渡り馬賊の頭目になったという。
明治40年頃の新聞で報じられたが真偽は不明。
息子の名前は茂、この茂という名は江戸幕府14代征夷大将軍・徳川家茂から一文字取ったといわれている。
妻のおけいは昭和6年ごろまで生き、沢山の孫たちに見守られる中に亡くなったとされる。
また新選組の証言などをまとめた記録文書新選組三部作〔子母澤寛著〕に夫・左之助の事を 語っている。





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