山南 敬助


天保4年〜-元治2年2月23日
(1833年〜1865年3月20日)

新選組総長(副長)。
陸奥国仙台藩出身。
読みについては「やまなみ」という読みがあるが、本人の署名に「三南」「三男」などがあるため、さんなんともいう。また晩年は三南三郎を称していた。
文武両道の人で特に学識があり、温厚な人柄であったという。「サンナンさん」と呼ばれ親しまれた。
仙台藩を脱藩して、江戸に出たとされているが、仙台には山南もしくは三南という苗字はないため、確かな事は不明。
小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流・千葉周作門人となる。
近藤勇の天然理心流剣術道場試衛館に他流試合を挑み、相対した近藤に敗れる。この時、近藤の腕、人柄に感服し近藤を慕うようになる。以後、試衛館の門人同様に行動を共にする。試衛館には後の新選組幹部となる土方歳三や沖田総司、永倉新八らが集っていた。
文久元年(1860年)8月、府中六所宮で行われた近藤勇の天然理心流四代目就任披露の野試合に赤軍として参加。翌文久2年正月には、沖田総司と共に小野路に剣術教授に出張している。
文久3年2月、将軍警護と尊王攘夷を目的とする清河八郎発案の浪士組に近藤等と参加、上洛し壬生浪士組の一員となる。3月26日、隊内の覇権争いで殿内義雄を四条大橋で、近藤・芹沢鴨らとともに暗殺した。こうして近藤派と芹沢派の野合によるヘゲモニーとなった壬生浪士組は、近藤、芹沢が局長となり、山南は近藤派として土方歳三とともに局長助(副長)に就任する(芹沢派からは新見錦)。
尊王攘夷を目的に結成された浪士組だが、会津藩預かりとなり京の不逞浪士取締りに専念。文久3年7月頃、山南は土方と共に呉服商「岩城升屋」に押し入った不逞浪士数名を激しい戦闘の末に撃退。8月18日の政変にも山南は参加し、2日後京に潜伏する長州系浪士を土方らと斬っている。
文久3年(1863年)の9月、かねてより反目していた芹沢鴨らの暗殺に参加。浪士組は近藤派(試衛館派)によって統一され、組織再編で山南は総長に就任し、局長近藤、副長土方歳三の間に位置する立場となった。しかしこの事件以降、後の脱走−切腹まで新選組の活動記録から山南の名は消える。元治元年6月の池田屋事件にも、参加していない。(病気説や屯所を守っていたという説がある。)
元治元年(1864年)11月、伊東甲子太郎らが入隊。伊東は山南と同門の北辰一刀流で、熱烈な尊王攘夷論者、学識も高かった。伊東は山南よりも上位の参謀職に付き格別の待遇をうける。
元治2年(1865年)2月、山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残し、新選組を脱走。新選組の隊規では脱走は死罪である。近藤と土方は、沖田を追っ手として差し向け、近江国大津で捕捉され、屯所に連れ戻された。(※脱走では無かったと言う説もある。)
山南の脱走原因は諸説ある。
西本願寺侍臣西村兼文によれば、山南を追い詰めたのは屯所移転問題だったとされる。壬生の屯所から西本願寺に移るというもので、隊士が増え手狭になったこともあるが、西本願寺は勤王の色濃く、長州藩毛利家と関係が親密な寺であったため、土方は、一挙にその根を断とうと考えた。その為、寺側が移転中止を願っても頑として聞き入れなかった。勤王の志強い山南も強く反対したが、近藤、土方は全く取り合わなかった。相手にされなかった事に山南は怒り、遂に新選組との決別を決意させたと言われている。
脱走の背景に尊王攘夷を目的に結成されながら、実際やっていることは志士の弾圧という新選組のありかたに疑問を感じていたとも言われる。
後に離脱する伊東と密約があったともいわれている。
平成10年に見つかった浪士文久報国記事(永倉新八 手記)より、元治元年(1864年)6月26日の警備を病気の為に屯所に引き込んでいた根拠ならび禁門の変について山南の事が一切書かれていない為、病に悩んでいた説もある。
試衛館以来の付き合いである幹部永倉新八や、伊東らに再度の脱走をすすめられるが、山南は死の覚悟を決めていた。永倉の配慮によって、山南が馴染みにしていた島原の天神明里が死の間際の山南の元に駆けつけ今生の別れを告げたという哀話が伝わっている(その永倉の手記「新撰組顛末記」や「浪士文久報国記事」などには明里についての記述はなく、子母沢寛の創作という可能性が高いとされていたが、山南の死後、沖田が面倒を見ていたらしく、実在が証明された。明里は結核を患って亡くなったとされる為、沖田も彼女から結核を移され死に至ったのだという)[要出典]。
元治2年(1865年)2月23日、切腹死。介錯は山南の希望により、山南が弟のように可愛いがった沖田総司。享年33。
その切腹を近藤が「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛したという。
伊東甲子太郎が山南の死をいたんで4首の和歌を読んだ。
『春風に吹き誘われて山桜 散りてぞ人に惜しまれるかな』
『吹く風にしぼまんよりも山桜 散りてあとなき花ぞ勇まし』

墓は光縁寺にある。

山南は、心優しい性格で壬生界隈では女性や子供達から慕われていたという。
「親切者は山南、松原」という言葉が壬生に明治初期まで残っていた。
『新選組遺聞』によれば「芹沢などと違い、隊内の者にも、壬生界隈の人たちにも評判が良かった」とされる。
新選組のスポンサー小島鹿之助は「武人にして文あり」と評している。
新選組に対する酷評で知られる西村兼文でさえ「少しく時理の弁(わきま)えある者」(「ちょっとは物事の筋道が解かる人」の意味。『壬生浪士始末記』)と評価している。
小柄で色白な愛嬌のある顔をしていた
新選組が駐屯した家の子どもであった八木為三郎によれば「丈はあまり高くなく、色白の愛嬌のある顔」であり、「子どもが好きで、どこで逢ってもきっと何か声をかけた」(『八木為三郎老人壬生話』)という。
8月18日の政変に出隊する時、近藤や土方は甲冑に身を包んでいるのに総長である山南には甲冑が渡されず、怒ったが、松原忠司が間に入り山南をなだめたらしい。
岩城升屋事件(いわきますやじけん)
元治元年1月、将軍家茂警護のため大阪滞在中、高麗橋そばの呉服商「岩城升屋」(岩木とも)に不逞浪士数名が押し入った際、土方・山南両名が駆けつけて激しい戦闘の末に撃退した。この功により、山南は会津候より金8両を賜っている。山南がこの事件で使っていた「播州住人赤心沖光作」銘の刀(2尺8寸5分=約86.4cm)は、ひどく刃こぼれし切っ先から1尺1寸(約33.3cm)のところで折れた。この刀の押し型(魚拓の様に、刀の形を紙に写し取ったもの)が土方の手で小島鹿之助に送られ、現在も小島資料館にて見ることが出来る(但し、展示品は模写)。『維新史蹟図説』によればこの事件で山南は左腕を負傷したとされ、一説にはこのときの傷が元で片腕が不自由となったために池田屋事件にも留守居に甘んじるなど、武士としての立場を失ったことと近藤や土方とのすれ違いとが相まって、脱走の原因になったのではないかとも言われている。しかし一方で、池田屋事件では長州浪士の屯所襲撃に備えて、残留組の最高責任者として残っただけとする説もある。
なお岩城升屋事件においては、その発生時期を文久3年7月頃とする説や、駆けつけた隊士が山南1人であったとする説もある。





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