伊東 甲子太郎



天保7年〜慶応3年11月18日
(1836年〜1867年12月13日)


新選組参謀。文学師範。のち御陵衛士(高台寺党)盟主。諱は武明。
元の名は、鈴木大蔵(大藏)。常陸・志筑藩生まれ。藩を追われ、東大橋(現石岡市)で私塾「俊塾」の校主、鈴木忠明の長男。父の塾で学んだのち、水戸に出、金子健四郎(藤田東湖の推挙で徳川斉昭に仕えた人物)の道場に入門。神道無念流剣術と水戸学を学び、勤王思想に傾倒する。
その後、金子が江戸藩邸に出仕した際、ともに江戸へ出て、金子が蟄居されると、杉山某に就き、のちに深川佐賀町の北辰一刀流剣術伊東道場に入門。その後、道場主伊東精一に認められてその跡目を継ぎ、伊東姓を名乗り伊東大蔵(伊東大藏)と称した。深川の道場は盛んで、門下生も多かったようである。
元治元年(1864年)10月、同門の藤堂平助の紹介で新選組に入隊。同年十一月、弟の鈴木三樹三郎、盟友の篠原泰之進、加納鷲雄、服部武雄、門人の内海二郎、中西昇らと京都へ上る。この上洛の年が元治元年甲子だったので、伊東甲子太郎と名を改めた。(甲子太郎は「きねたろう」とも読まれることがあるが、甲子という年は、天意が革(あらた)まり、徳を備えた人に天命が下される「革令」の年とされそれにあやかったものであること、同時代史料に「樫太郎」という表記も見られることから「かしたろう」が正しい)
新選組では、文武両道、伊東道場道場主ということで、参謀兼文学師範に抜擢される。近藤勇は当初歓迎したが、土方歳三は、並ならぬ策士と見て警戒したようである。山南敬助が切腹して死ぬと伊東は4首の和歌を詠んだ。
伊東の弁舌は巧みで、人を納得させるのが上手かったようだ。
伊東と新選組は攘夷という点で結ばれたが、新選組は佐幕派で、勤王(倒幕)を説こうとした伊東とは方針をめぐって密かに対立。 (ただし、伊東は新選組離脱後に同志に英語を学ばせている。勤王も武力倒幕と必ずしも一致しない点には注意)
慶応3年3月20日、薩摩の動向を探るという名目と、孝明天皇からの御陵警備任務拝命により、新選組を離脱。御陵衛士(高台寺党)をあらたに結成。新選組結盟以来の隊士で八番隊組長の藤堂平助も御陵衛士に参加する。
その後、新選組内で失脚しつつあった武田観柳斎らは御陵衛士に加わりたいと願うが、伊東は拒絶した。 慶応三年に四通の建白書を朝廷に提出し、中でも大政奉還の行われた直後の十月に出された三通目の建白書では、公家中心の新政府を作り、一和同心(国民が一つになり、議論を尽くして決めること。挙国一致を唱え、幕府側の人間も参加させるべきとしているのは坂本龍馬に近い考え方)、実務には広く天下から人材を集めること、畿内(近畿地方)五ヶ国を新政府の直轄領にすること、国民皆兵などを提唱している。また、一通目の建白書では神戸開港反対を唱えていたが、三通目では「大開国、大強国」を作ることを唱え、積極的開国による富国強兵策に近い考え方を示している(ただし、神戸開港は孝明天皇の遺志に反するとしてあくまでも反対している)。また、殺された時に懐に五通目の草稿があり、同時代の記録によるとほとんど三通目の写しに近く、この案で近藤を説得しようとしていたと言われている。当時の一級資料「鳥取藩丁卯筆記」では、薩摩の吉井幸輔が越前の中根雪江にこの建白を「いちいち尤も」と言っていたと記されている。
慶応3年11月18日、近藤は自分の妾宅に伊東を呼び出して酔わせ、帰宅途中の油小路で新選組の大石鍬次郎ら数名に暗殺させた(油小路事件)。絶命地は本光寺の門前。「奸賊ばら」といい倒れたといわれている。享年33。 酒に酔わせたうえで、多人数で待ち伏せ、また闇から刺すという慎重な暗殺方法を取ったのは、北辰一刀流剣術の道場主であった伊東の剣の腕を、近藤や土方が警戒したからとも言われている。
伊東の遺体は油小路に放置され、御陵衛士をおびき出す手段として使われた。御陵衛士が収容しにやって来たところを、待ち伏せていた新選組と斬りあいになり藤堂らが死亡した。その際、御陵衛士の一人服部武雄の奮戦はすさまじかったといわれる。 (*参照 相馬主計・後に伊東甲子太郎暗殺容疑で島流し)
死後、従五位を朝廷より賜る(大正7年(1918年))。また、昭和7年(1932年)4月に靖国神社へ合祀される。
墓は戒光寺にある(慶応4年3月13日、御陵衛士により光縁寺から改葬された)。

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