芹沢 鴨


文政10年?〜文久3年9月16日
(1827年?〜1863年10月30日)

幕末の水戸藩浪士、新選組(壬生浪士)の筆頭局長。芹沢鴨の前は下村嗣司。諱は光幹。家系は常陸平氏の平成幹の流れを汲むという平姓の芹沢氏。父は芹沢外記貞幹。
中世より派生した常陸国芹沢村(現茨城県行方市玉造町芹沢)の豪族、芹沢家から起因し、関が原の戦功により幕臣となり、のちに水戸藩上席郷士(士分)となった芹沢家の当主、芹沢外記貞幹の三男として生まれた。諱は光幹。幼名は玄太という。のちに松井村(現茨城県北茨城市中郷松井)の神官である下村祐斎の婿養子となり、下村嗣司と称した(継司、嗣次とも)。但し、出自、出生年には諸説ある。たとえば島田魁の『英名録』には「芹沢又右衛門子」とあり、分家の出身ともいわれるが、水戸藩士の系譜を掌握する水府系纂に記載される芹沢又右衛門家に該当する記述は見当たらない。(ただ、この芹沢家のルーツも豪族芹沢家からの分家である)
武術は神道無念流剣術戸賀崎熊太郎に剣を学び、免許皆伝を受け師範代を務めた。

[編集] 天狗党

嗣司は尊王攘夷思想を貫徹するため、松井村を離れ、万延元年(1860年暮れ、天狗党の前身である玉造組に参加した。玉造村(現茨城県行方市玉造)を拠点として横浜で攘夷を決行するため石岡(現石岡市)、玉造、潮来(現潮来市)近辺の豪商、豪農を回り、資金集めに奔走した。 このとき、玉造組では『進思尽忠』『無二無三大和魂』と記載された幟を掲げて、下村嗣司もこのころからトレードマークとなった鉄扇を使用していた記録が残る(伊能家文書)。
しかし、文久元年(1861年)2月、幕府領での献金活動や偽物が横行し、問題化したことから幕府より水戸藩へ処置するよう指示を受けたことから、藩の方針が転換し、天狗党派が更迭され、かわりに反対派閥、諸生党が台頭すると、玉造組は即時弾圧された。4月には嗣司も佐原方面での献金強要の罪で捕縛され入獄した。死刑を待つ身だったが、文久2年(1862年)、朝廷工作が功を奏し、再度天狗党が政権を奪取したため、12月、大赦の令で出獄。この時に芹沢鴨を名乗ったという。
文久3年(1863年)2月5日、清河八郎が発案した浪士組に同郷で芹沢家の家臣筋でもある平間重助を伴い参加し、六番組小頭に任命された。のちに江戸の剣術道場試衛館の近藤勇、土方歳三、沖田総司、山南敬助らも加わって、京都まで行動をともにする。
23日、京都に到着。芹沢は近藤一派とともに壬生の郷士八木源之丞の屋敷に分宿した。そのころ将軍の警固のため上洛した浪士組を、真の尊王攘夷の先鋒とするため、起立者である清河八郎は、朝廷に上奏文を提出して、浪士組を朝廷の直属にすることに成功した。29日、新徳寺に同志を集め攘夷の決行のため江戸帰還を宣言すると、芹沢と近藤はこれに反対し、京都残留を申し出て脱退。この時に残留を決めたのが芹沢の同志5人と近藤の同志8人の合計13人だった。これに殿内義雄や根岸友山らも合流する。
3月10日、芹沢、近藤ら17人(24人とも)の連名で会津藩に嘆願書を提出。会津藩は彼らを「御預かり」とすることを決める。芹沢らは八木家を屯所として(後に前川家と南部家にも寄宿)このとき「壬生浪士組」を名乗る。その際、内部抗争が起き、26日に殿内が暗殺され、根岸も同志とともに離脱すると、壬生浪士組は芹沢派と近藤派が牛耳ることになった。のちに芹沢、近藤、新見が局長となり、その内で芹沢が筆頭となった。
ただ、会津藩御預かりとはなっていたが、給金の提供がなかったため、4月になって芹沢、近藤らは大坂に下って商家から資金の提供を受けた。しかし、会津藩の体面に関わることから、のちに藩より手当が支給された。
6月3日、芹沢、近藤ら10人が不逞浪士取り締まりのため大坂へ下った。道ですれ違った力士が道を譲らなかったため、芹沢らは結果、暴行した。その行為に怒った力士の仲間が駆けつけ乱闘となり力士側に死傷者が出た。相撲部屋(小野川部屋)の年寄が詫びを入れてことは治まったが、大坂町奉行所与力内山彦次郎がこれを問題にして、近藤を怒らせ後に暗殺されている(暗殺犯については諸説あり)。
同月、水口藩の公用方が壬生浪士組は乱暴であると苦情を言ったことが会津藩を通して芹沢に知られ、激怒した芹沢は永倉新八、井上源三郎らを藩邸に遣り、脅しつけて公用方を謝らせ詫証文を取った。後で切腹ものと恐れた公用方は詫証文を取り返そうと人を介して芹沢を説得。芹沢は詫証文を返すこととなり、島原角屋で宴会が開かれた。しかし酒に酔った芹沢は大暴れをして店主の角屋徳右衛門に7日間の営業停止を一方的に申しつけている(角屋での暴挙)。
同年8月18日、八月十八日の政変に際して御所の警備のために近藤、新見とともに隊士を率いて出動するが、御門を固めていた会津藩士たちは壬生浪士組を知らなかったため槍を構えて通そうとしなかった。「通せ」「通さぬ」と双方が怒鳴りあう中、芹沢が哄笑しながら進み出て来てた。会津藩兵が槍を突きつけると、芹沢は鉄扇でその槍先を悠々と煽いで笑う。会津藩の軍奉行が駆けつけて壬生浪士組を通してやり、芹沢は悠然と門を通った。人々は芹沢の剛胆さに驚いたという。(『新選組遺聞』)
この出動を機に会津藩は壬生浪士組に新選組の隊名を与えた。
9月13日、近藤らは芹沢派の新見錦(この時は副長に降格)に乱暴狼藉の罪を問い詰めて切腹させた。(『浪士文久報国記事』)
 そのような時期、9月には芹沢が懸想していた吉田屋の芸妓小寅が肌を許さなかったため、立腹した芹沢が吉田屋に乗り込み店をぶち壊すと主人を脅して、小寅と付き添いの芸妓お鹿を呼びつけ罰として二人を断髪させる乱暴を行っている。(『浪士文久報国記事』)
9月14日、朝廷の怒りを受け召取の沙汰が降りたことから、会津藩は近藤、土方、山南らに芹沢の処置を密命する。乱暴狼藉は表向きの理由で、水戸国学、天狗党の強烈な尊王攘夷思想の流れをくむ芹沢を危険視したという説もある。
文久3年9月16日夜(水戸藩川瀬家文書による、『新選組遺聞』によると18日)、新選組は島原の角屋で芸妓総揚の宴会を開いた。芹沢は平山五郎、平間重助、土方歳三らと早めに角屋を出て壬生の八木家へ戻り、八木家で再度宴会を催した。その席に芹沢の愛妾のお梅、平山の馴染みの芸妓桔梗屋吉栄、平間の馴染みの輪違屋糸里が待っており、すっかり泥酔した芹沢たちは宴席が終ると女たちと同衾して寝た。
大雨が降る深夜、突然、数人の男たちが芹沢の寝ている部屋に押し入り、同室で寝ていた平山を殺害し、芹沢に切りつけた。驚いた芹沢が飛び起きて刀を取ろうとするが叶わず、真っ裸のまま八木家の親子が寝ていた隣室に飛び込むが、文机に転び、そこを刺客たちがよってたかってずたずたに切りつけた。芹沢を殺すと刺客たちは立ち去った。
平山の死体は胴体と首が離れており、芹沢と同衾していたお梅も首を切られ惨殺された。別室にいた平間は逃亡。吉栄と糸里も難を逃れ姿を消したという。
『新選組遺聞』では、為三郎の母おまさが土方歳三が夜中にしきりに様子をうかがっているのを目撃しており、刺客には沖田総司と原田左之助は確かにおり、山南敬助もいたのではないかと記している。
永倉の『浪士文久報国記事』によると暗殺は近藤派の土方、沖田、藤堂平助、御倉伊勢武らが実行したとある。西村兼文(新選組が屯所を置いた西本願寺の寺侍)の『新撰組始末記』では実行者は土方、沖田、山南、原田になっている。
一部文献では18日死亡とあるが、『新選組始末記』『新選組遺聞』によって固定化された説である。ちなみに為三郎の遺談にある18日は降雨と証言しているが、降雨のあったのは16日であり、矛盾する。
事件は長州藩の仕業とされ、18日(あるいは20日)に芹沢と平山の葬儀が神式に則り盛大に執り行われた。事件の一連の経緯を20日に近藤は郷里多摩の佐藤彦五郎に手紙を送っている。
芹沢の墓所は京都市中京区の壬生寺にある。





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