短編小説

□春の夏
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 そんな現実逃避をしながらも猫から目を離せないでいると、何か違和感があるのを感じた。
 まるっこい頭からぴんと突き出た二つの三角、流れるような曲線の体つき、その尻とおぼしき場所から生える細長いもの。うん、猫だろう。お座りした猫。ただその猫は妙に平たくて、というより厚みをまったく感じない。紙切れみたいだ。
 猫が少し身じろぎした。
 俺は驚くが、動かない体では何のリアクションも取れやしない。それより今、猫が動いたことで気づいた。
 こいつ、影がない。
 というより全身が影になっているのだ。暗闇の中でもさらに真っ黒で、むしろ影で出来ているんじゃないかと思う。そのことがすでに充分な恐怖をさらに煽った。じっと見ていると吸い込まれそうで、視線を逸らしたいのに今はそれさえ容易ではない。かかる時間と労力もそうだが何より、気持ちが猫に縫い止められているのだ。怖くて見ていたいものではない、だけど見なければいけない気がする。目を、逸らしてはいけない。それに違和感の正体は影ではないと思った。
 この猫には……見覚えが、ある。
 こんなに黒くて平たい猫に区別も何もないが、微かに、懐かしいような感覚を覚えたのだ。頭が痛い。奥を爪でがりがりと引っ掛かれているようだ。疼く。息が浅く、速くなる。
 懐かしい。
 この猫と、よく一緒にいた気がする。
 だけど俺は猫どころかペット自体を飼ったことがないのだ。いつか友人宅でこんな猫を見ただろうか。ペットを飼っている奴は少なかったと思う。猫、猫…。
 そうだ、健(たける)の家に猫がいた。でもあいつの猫はもっとふくよかで、はっきり言うとデブで、黒毛じゃなかった。名前は忘れたが、かなりふてぶてしい性格だったことは覚えている。健が部屋を掃除していても寝ていれば動かないし、ソファーもよく一匹で占領していた。暇になればこちらの都合はお構い無しにちょっかいを出してくるし、お菓子を開ければ寄越せとばかりに寄ってくる。メスなのにまったくおしとやかさなど欠片もない、図太い奴だったのだ。それに比べて俺の猫は控えめで、自分から餌をゆすったりなんかしなかった。大人しくて静かで、初めは元気がないのかと心配することも多かったが、そのうちそういう性格なのだとわかった。ご飯はちゃんと食べていたし、俺と遊ぶ時は元気に――――は?
 俺の、猫?
 俺、と……遊ぶ?
 がりがり、脳内の爪音が大きくなる。
 猫が動く。俺の頭の方へ。ゆっくり、一歩ずつ確実に。猫の前足は俺の鎖骨のあたりで止まる。そこから身を乗り出してくる猫。嫌だ。怖い。視線は逸らせない。せめて目をつむりたかったがまぶたも動かない。瞳が乾く。涙が出た。それが生理的なものか恐怖によるものなのかはわからないしどうでもいい。ただ頬を伝った一筋の涙はとても熱くて、非現実的なこの状況の中でひどく現実的な感覚だった。
 猫が、迫る。
 薄目のせいでただでさえ狭かった視界が黒で埋めつくされた時、俺は鳴き声を聞いた。
 小さくて控え目な鳴き声。
 俺はこの声を……知っている。
 がり、がり。
 反響する、音。



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