Subject-b

□以外
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「だーーーーーーっ、もう1回だ清四郎っ!」



『以外』



聞き分けのない顔。
駄々をこねる様子は、まるで手の掛かる赤ん坊のようで。
僕は何度目か分からない溜息を吐いた。

「だから、駄目だと言ってるでしょう」

奪い取ろうと伸ばした手を振り払うと、悠理の手の届かない場所へと腕を伸ばす。

「だから、嫌だって言ってるだろ!」

そう言うと、悠理は僕の肩を掴んで頭の上に伸ばした手を引き下ろそうとした。





事の発端は、とても些細なものだった。
いつも通り悠理に勉強を教えていたけれど、あまりの字の汚さに僕が文句をついた。

「全く、何で悠理の字はそんなに汚いんですかねぇ」

ジロリと僕を睨みつける瞳。
やりたくないという表れなのか、机の上に突っ伏したまま文字を書きなぐっている。
ぐちゃぐちゃと書きなぐる字は、あまりにも汚くて。
思わず口から、言葉が零れた。



「もう少し綺麗に書いたらどうなんですか?女の悠理より、男の僕の方が字が綺麗では面目が立ちませんよ」



瞬間、ピクリと眉が跳ね上がる。
不満そうだった顔は、明らかなまでに不機嫌なものへと変わり。
辛うじて掴んでいたペンは、机の上に投げ出された。

「別に、あたい字が汚くても困んないもん」

不機嫌のせいなのか、膨らませた頬は更に丸みを帯びていて。
突けば破裂するんじゃないか、なんてどうでも良い事を考えてしまう。

「困りますよ、将来ずっとその字で名前を書くつもりですか?
字というのは一生付き合うものなんですから、今からでも直しておかなければ
困るのは悠理なんですよ?」
「だから、困らないって言ってるだろ!」
「だから、困らないはずがないって言ってるんです」

押し問答のような言葉の応酬に、息を吐く。

「あっ、お前…またあたいを馬鹿にしたろっ!」
「何でそんな風に思うんですか…」
「だって、溜息吐いた!」
「溜息なんか吐いていませんよ。大体、悠理がそう思うという事は、
少なからず自分の中に負い目があるからでしょう?
だったら、その負い目を拭い去る努力をしたらどうなんですか…」
「うるさいっ!だから、あたいは困らないって言ってるじゃないかっ!」

真っ赤な顔をして反論するけれど、素直な瞳はあまりにばつが悪そうで。
悠理に気づかれないよう、喉の奥で小さく笑った。





「それなら、こうしましょう。今から勝負をして、僕が勝ったら悠理は僕のいう事を聞くんです。
勿論、悠理が勝ったら僕が悠理のいう事を聞きます。これなら、文句はないでしょう?」
「清四郎が、あたいのいう事を?」
「ええ、悠理のいう事を」
「…何でも?」
「勿論、何でも」

少し困ったように眉を顰めて悩む顔。
けれど次の瞬間、風船が破裂したかのような笑みを浮かべると、
ニヤリと意地悪く口角を上げた。

「絶対の絶対だからな!」
「僕が悠理に嘘を吐いた事がありますか?」
「沢山あるじゃないかっ!」

思いもよらない悠理の答えに、思わず苦笑が零れる。
けれど、そんな苦笑を気づかれないように飲み込むと、
いつものように涼しい顔を悠理に向けた。

「では、1回勝負です。…良いですね?」

























かくして。
目の前には、不服の顔を浮かべた敗者が…一匹。
机に突っ伏して唸るその様子は、あまりにも情けなくて。
痛む頭を押さえながら、それでもどうにか言葉を発した。

「さぁ、悠理…僕のいう事を聞いてもらいますよ。
…そうですね、まずは姿勢を正して机に向かってもらいましょうか。
それから、誰でも読める字を書くように心がける…良いですね?」

瞬間、机の上に潰れていた身体がピクリと跳ねる。
勢いよく上げられた顔に些か驚いたけれど、それでもジッと彼女を見据えた。

「清四郎っ、もう1回だ!!!」

突然の彼女の言葉。
そう言うなり、僕の手の中のカードを奪おうとする。
慌てて悠理の手を避けたけれど、なおもその手は伸びている。

「1回勝負だと言ったはずです。それともさっき言われた事まで忘れてしまうんですか?」
「うるさいうるさい、誰が負けっ放しでいられるかってんだ!」
「諦めの悪い奴ですな。良いですか、悠理は負けたんです」
「今度は勝つかも知れないだろっ!」
「何度やっても勝てませんよ、悠理じゃ…」
「そんなのやってみなきゃ分からないじゃないか!」

掴み掛かる手を避ければ、今度は奪い取ろうとする手が伸びる。
その手から逃げるようにあちらこちらへとカードを動かすけれど、
それでも諦める様子は全くない。

「お前に勝つまで絶対にやるんだっ!」

逃げる僕の手を両手で掴みかかる。
左右にカードを持つ手を動かして、空いているもう片方の手で、
漸く、素早く動く彼女の手を捕らえた。
バタバタと暴れる身体と、挑発的な瞳。
開かれた口からは聞くに堪えない罵声ばかりが飛び出してくる。

「卑怯者っ!」
「誰が卑怯ですか、誰が…」
「お前以外、誰がいるんだよ!」

恨みがましいその視線に、思わず息が零れる。
同時に、その視線は更に色濃くなり…諦めるようにもう一つ、息を吐いた。



「分かりました。それなら、こうしましょう。勉強が終わったら、出かけましょう。
丁度、悠理が喜びそうな美味しいケーキの店を見つけたんです。…行きませんか?」
「行くっ!!!」
「では、真面目に勉強をして下さい。急がないと、閉店してしまいますよ」

そう言って手を放せば、先ほどまでの勝負など忘れてしまったかのように机に向かう姿。
やり直しを畏れているのか、決して綺麗とは言い難いが、それでも先ほどと比べれば、
数段丁寧に書き連なれた文字が見えた。

あまりに分かり易いその様子に、思わず笑みが零れた。



分かり易い表情に、分かり易い行動。
けれど、その行動を押さえる事は並大抵ではない。
ただの男になんか出来るものか。
そう、―――僕以外には、無理だろう。





「ほら、早くしないと閉まってしまいますよ?」
「今、やってる!!!」



終。

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