11/08の日記

00:17
一般的な平等とは?
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「平等」と唱える人達がいる。
世間の「平等」とは、差別や偏りなく皆が等しく扱われる、扱うという様な考え方が一般的であろう。
年齢、性別、人種、民族、宗教、障害等が差別の対象となっていることが多い。日本国憲法では「法の下の平等」として、簡略的には国民一人ひとりに平等権が与えられている。この大原則は、一部を除いた各国でも同様の位置付けがなされている。
前述した人種、民族、宗教は世界各地で紛争の火種としての要因となることがある。同じ人種でも宗教が異なることで不和となり、同宗教でも人種や民族が異なることで不和となる。これらの問題は、我が国では無縁に感じることが常だろう。宗教も無に等しい、民族や人種もほぼ単一である。世界的にみれば、本国は恵まれた環境なのかもしれない。

差別問題としては数々の映画化がなされたアパルトヘイトが印象的だ。まさに白人の有色人種に対する人種差別である。非白人と呼ばれる、黒人やインド人、マレーシア人等のアジア系住民、カラードと呼ばれる混血民族などが差別の対象となった。同じアジア系住民である日本人は、名誉白人との位置付けで差別の対象にはならなかった。中国は、白人の位置付けがなされたと言われている。両者共に有色人種であるにも関わらず同アジア系住民と同等の扱いを受けず優遇されたのは、国交問題や経済的な絡みが大きな要因であったとの説がある。

差別は日常生活にも存在している。それは日常的と言っても過言ではない。
日常的な差別の背景を辿っていくと、差別の対象は少数派(マイノリティ-)の場合が多い。社会的傾向としては、マイノリティ-=弱者の相関図になるのが通例だ。つまりマイノリティ-=弱者は、多数派(マジョリティー)により不利な立場へと追いやられるのだ。マジョリティーが故に意識せずとも強い発言力となり優位に物事が運ぶこと多い。
その例え話としてよく耳にするのが、電車の自動改札機だ。自動改札機は、右側に機械があって切符を入れたり電子マネーをかざして通過する。あれはマジョリティーである右利きに便利に作ってある為、マイノリティ-の左利きには不便な作りとなっている。もちろん左利きの方の為にも配慮はあるが、完全にマジョリティーである右利きを前提に設置したことは否めない。もし左側に自動改札機が設置してあったら右利きの人は不便に感じるだろう。

障害者なんかも差別対象の典型例である。マジョリティーである健常者を前提に環境整備している為、日常的に不便を感じることが多々ある。視覚障害者は、白杖や盲導犬を利用し空間認知しながら移動している。しかし、地面から1b程度しか空間認知できない為、トラックなどの大型車が路上駐車しているとサイドミラーに顔面をぶつけ怪我を負う、マンションやビルの階段下のデッド空間に気付かず壁角に頭を強打、今まで車等はエンジン音で危険察知していたのに環境に優しいハイブリッド車の開発により、その静音性が視覚障害者の人身事故の危険性を高くした。まだまだ障害者にとって、この世は不便の塊だ。

ここで差別論や不便論だけ述べて、この世の真の平等を語るのは絵に書いた餅になってしまいかねない。絵に書いたようにいかないのが現実なら、多角的視点から物事を議論して決着する必要がある。決して一方向的ではなく双方向的な視点での判断が大切だ。
そうはいっても人類誕生から現在に至るまで、人間社会に差別や争い事は絶えない。永遠の問題ともいえるこのテーマに終着点はあるのか疑問だが、マジョリティーが差別を生み出すような偏った世の中ではいけないと思う。

蛇足になるが、必ずしもマジョリティーが優位に立てるわけではないことは付け加えておきたい。事実、アパルトヘイトでは黒人の絶対数は白人を遥かに上回っていたが、白人による人種差別が激化した。
この世に真の平等を求めていくのは無理難題、素数のような謎めいたモノなのかもしれない。
平等とは非常に複雑な問題だ。

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