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□君を確かめるように、
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「は?」

 第一声はそんな酷く間の抜けたもので、自分でも今どれ程間抜けな顔をしているのかが分かるくらいだった。
 しかし、それほどに衝撃が大きすぎた。津波みたいに、一旦静かすぎるほどに動きを停止していた頭に理解した情報と激情が押し寄せたのはそれから暫くしてからだった。

 ごめん、だとか何かを口にしたとは思うけれど、ろくにアベルの声も聞かず踵を返して駆け出していた。
 どくどくと未だ大して走ってもいないのに心臓が痛かった。鼓動が耳のすぐ後ろで鳴っているみたいに、うるさい。

 手にしている情報を元に組み立てた公式のイコールの先に見えるのは、どれも最悪な答えだ。
 今日は、エイプリルフールだった? そんな馬鹿げた考えまで浮かんできてしまって、腑抜けな自身の精神に誰にはばかることもなく舌を打った。

 走る度に足の裏に伝わる絨毯の感触ばかりが、なんら変わらない日常を表していて、こんなにも必死に走っているのが酷く現実感が伴わなかった。
 このまま目が覚めて、ああ嫌な夢だったなんてなればいいのに。頬にかかる長い髪を苛立ち紛れに後ろに流し、踏み込む足に力を込めた。

 この建物の廊下はこんなに長かっただろうか、乱れた息の下で再度シスターが舌を打つ。
 いい加減、終わりがなくなってしまったのだろうかと思い始めた頃。廊下の突き当たり左手側に見えた扉に、走っていた勢いをろくに抑えもせず彼女は飛び付いた。


「教授、トレスは!」


 挨拶も何もなしに入ってきた来客に、しかし部屋の主は嫌な顔一つしなかった。
 いつものポーカーフェイスは健在らしく、やあとお決まりの海泡石のパイプを掲げてみせた。しかし、表情には色濃い疲労が滲んでいて些か笑みにも苦いものが混じっているようだった。
 パイプの先に静かに火を灯し、それで奥へと続く扉を指し示した。


「一応、話せるくらいには回復しているよ。まだ処置は残っているがね」


 伝えられた言葉にピンと張り詰めていた糸が、一気に緩んでしまいそうだった。良かった、と思うのにそれを上手く形として発することができない。
 気を抜けば情けなくその場にへたり込んでしまいそうだった。
 長く長く息を吐き出す。そうでもしなければ、口を開くことも足を動かすこともできそうになかった。


「ああ、光学センサーが処置の途中だから、中に入る時電気はつけないように頼むよ」
「分かりました。すみません、お疲れのところにばたばたと」
「いや、構わないよ。今はよっぽど君の方が倒れそうな顔をしている」


 微苦笑を浮かべて指摘され、しかしどうすればいいかも分からず、曖昧に頷いて頭を下げるだけに止まった。
 失礼します、今更ながら挨拶を付け加え部屋を横切り奥の扉に手をかけた。
 掴んだノブが温かく感じられ、如何に自分の手が血の気を失っているのか思い知らされた。
 体の中は熱すぎるくらいなのに、末端は冷えきっていた。

 頭を二、三度振って意識をしっかりさせてから、ノブを回した。まだ、心臓の痛みは治まっていない。全身の神経がぴりぴりしていた。
 背後でパタンと扉を閉じると、室内は思った以上に暗い。窓にひかれた厚手のカーテンの繊維から差し込む光量に目が慣れるまで、じっと扉の前で待つ。

 徐々に見えるようになってきた室内は、予想に反して床に延びたコードの数も少なく、片付いているように見えた。
 足下に注意しながらコードの続く先、箱形の機器に囲まれた寝台へと一歩一歩近付いていく。

 いつもなら、室内に入った時点でこちらを確認するはずの彼は未だ黙ったままだ。
 傍らまで辿り着くまでの時間が、永遠にも思えた。それくらいに慣れない視界の暗さは、心の内にある不安を引きずり出す。

 確かめるように寝台に指を滑らせてみるけれど、肝心のそこに寝ている彼へと手を伸ばせずにいた。
 処置はまだ途中なのだ。果たして自分が触れてもいいのだろうか。触れて、もしも生々しい傷痕にでも気付いてしまったら愚かにも取り乱してしまいそうだ。


「トレス……」


 囁いた声に答えはない。今彼の意識があるのかないのか、怪我はどの程度なのか。この暗闇ではそれすらも分からない。
 嗚呼。唇が情けないくらいに震えてしまう。
 暗闇が、無言の空間が、触れることさえできないことがひたすら怖い。恐怖が全身を駆け巡って、心臓を締め付ける。


「トレス」


 体の芯に入っていた何かが折れてしまったかのように、その場に崩れ膝をついた。震える足は、体重を支える役目を放棄してしまったようだ。
 顔を両手で覆ったけれど、その感覚すら定かではない。苦しさと恐怖ばかりが五感を支配する。

 ぱたぱたと、指の隙間から零れ落ちた滴が金属の寝台に触れて弾けた。
 途方にくれた子供のように彼の名前を繰り返す。なんて情けない姿だろうか。思っても、口は何かに突き動かされるように名前を呼ぶことを止めなかった。
 呼ぶことを止めてしまったら、沈黙が満ちる空気に押し潰されて、もう二度と立ち上がれないような気がしたのだ。


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