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□甘く揺れる髪に、
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なつかれる、というのは別段悪い気はしないものだ。子犬のように無邪気にじゃれついてくるのも、まるで雛鳥のように必死に後を着いてくる様子も、可愛らしいものと男には感じられたし、元々子供の相手は苦ではなかった。
しかし、これはどうしたものか。書類を片手に抱えたまま、男は実に深く深く呼気を吐き出した。
ずらりと資料の並んだ棚の前、お目当てのファイルにはあと一歩という距離だ。だけれど、その一歩が踏み出せないのであれば、半歩であろうが百歩であろうが結局のところ変わりはないのかもしれない。
「カーヤ」
名を呼べば、腰に回されていた小さな腕にぎゅっと力が込められる。服の上からかかる圧迫感は微々たるものだ。けれど、だからと言って払い除けられるようであるなら、そもそも男もここまで悩まないだろう。
額をピタリと男のみぞおちにくっ付けてしまっているために、視線を下ろしても小さな旋毛が見えるだけだった。
少女の腰付近まで伸びたブラウンの髪が、降り注ぐ午後の光に柔らかな光を反射している。
僅かに開いた窓から入ってくる風に、さらさらと揺れる髪を眺めながら、どうしたものかと男は内心でひとごちた。
そして、また少女の名を舌の上に乗せる。
ちらり、と小動物を彷彿とさせる動作でアーモンド色の大きな瞳が男の顔をを見上げると、直ぐ様また顔を伏せてしまった。
微笑ましさに、くつり、と喉の奥を震わせ男は紫色をした瞳を細めた。
「あと少しで休憩にするから、待ってくれないか。そうしたらかまってやれるから、な?」
「……さっきもそう言ってたじゃん」
くぐもった声が、直接体に響く。顔は少しも見えないのに、少女の唇を尖らせた表情が容易に想像でき、それがまた男の笑みを誘った。
「仕事片付けなきゃ、俺も色々ヤバイんだよ」
「いつ来ても仕事してるじゃん。いつ休むの?」
「平の休みは、かくも得難きものなんだよ」
ぽんぽんと俯いたままの頭を軽く叩く。指先に触れた髪の感触が心地好く、思わずそのまま髪を梳くようにして頭を撫でる。
風に吹かれ手からさらさらと零れた髪からは、紅茶や焼き菓子などを合わせたような不思議な甘い香りが香り立つ。
懸命に背伸びをして男に認めてもらおうとしている少女は、その扱いがいたく気に入らなかったらしい。
きろり、と上目使いに睨まれてしまうが、男にしてみれば怖いどころか、却って少女を幼くさせていて微笑ましい限りだ。
穏やかな笑みを返され、カーヤは悔しさと恥ずかしさをない交ぜにしたような表情を浮かべた。
「笑わないでよ」
「うーん? そんなこと言われてもなぁ」
お前、可愛いからさ。さらっと顔色さえも変えずに言われた台詞に、カーヤは首筋まで真っ赤に染めてまたもや俯いてしまった。
悔し紛れにだろうか、ぐりぐりと額をみぞおちに押し付けてくる。
嗚呼、まったく。少女の機嫌を損ねてしまうのは分かってはいたけれど、男は口許が緩むのが抑えきれなかった。
なんて愛らしいんだろうか、この少女は。
「そろそろ顔を上げてくれないか? 旋毛ばっかり眺めてるのも、寂しいんだけどな」
すっかりヘソを曲げてしまった少女の機嫌をどう直そうか、男の頭からはすっかり書類のことなど消え去っていた。
甘い甘い香りに引き付けられるように、小さな旋毛に唇を寄せて、男は微笑んだ。