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□濡れた頬に、
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 夏の暮れに降る雨は、初夏に降るものに比べて冷たさが増しているようだ。空から降り注ぐ水滴は暗い雰囲気に包まれる町並みを写しているかのように暗い。
 頬に打ち付ける雨粒の冷たさに眉をしかめたペテロは、早めていた足取りを止めた。

 ばしゃりと大きく踏み出した足に、石畳の上で曇天を見上げていた水溜まりが弾けて歪んだ。
 飛び散った水滴が僧服の裾に跳ねたけれど、既に頭から足先まで濡れてしまっているペテロには些細なことであった。

 僅かに乱れた息を整えようと呼気を深く吐き出す。その吐息が空気中に紛れるのを待たずに、レンガ造りの壁に背を預けていたシスターはゆるりと口を開いた。


「こんな町外れで会うなんて、奇遇ね。傘もささずに異端審問局局長が散歩?」


 灰色の空と色彩の乏しい町の中で、シスター服のコイフから零れた彼女の真っ赤な髪ばかりが目に痛いほど鮮やかだった。
 固くシャッターを閉ざしてしまった店先におまけ程度についた軒先では、降りしきる雨を防ぐには足りなかったのだろう。真っ白な尼僧服はすっかり濡れてしまっていた。


「任務先からの帰りだ」
「徒歩で帰ってきた訳じゃないでしょうよ。車か何かだったんじゃないの?」
「……汝が見えたので降りてきた」


 紅の瞳に見つめられ、気恥ずかしさを感じながらもしぶしぶ答えを口にすれば、彼女はけたけたと口を開いて笑った。
 馬鹿ねぇ、あんた。一頻り笑ったシスターは、ペテロの頬に手の甲で触れた。すっかり体温を雨にさらわれた皮膚は冷たかったけれど、彼女の手はそれ以上に冷えきっていた。
 一体、いつからこんな所にいたのだろうか。自然、ペテロの表情が険しくなる。


「汝は、こんな所で何をしていた」
「何って、雨宿り以外の何に見えるってのよ」
「某が聞きたいのはその様なことではない!」


 思わず語気が荒くなる。しかし、彼女の何かを面白がるような笑みは消えない。むしろ徐々に深くなっていくようで、ペテロは苛立ちと悔しさを混ぜ合わせた感情に口を閉ざした。
 頭一つ分以上も下にある彼女の顔を、黙って見つめる。横から叩きつけるような雨にずぶ濡れになってしまった髪は、含んだ水分の分だけ重たそうだ。

 髪と同じく濡れてしまった頬に、雨が流れたものとは異なった跡を目にして、ペテロは半ば無意識に冷えきった頬に手を伸ばしていた。


「なんか、あんた子供みたいな顔してるわよ」
「某はそのような歳ではない」
「そりゃそうよ。こんな図体のでかい子供なんていやしないでしょ」


 厚い手の皮に、彼女の明るい声や笑う振動が直接響く。無骨な自身の手で包み込まれた顔は驚くほどに小さくて、掌全体に感じる冷たさに胸の中心が痛んだ。
 降り続く雨の勢いは先程よりも、幾分が落ち着いたようであった。敷き詰められた石畳は、雨粒だけではなく冷気までも弾いてしまうのか、冷たい空気が足元から這い上がってくる。


「送っていく」


 彼女の返答を聞くことなく、ペテロは歩き出していた。半ば引きずるような体勢になってしまったけれど、砕け散る雨粒の音に紛れ彼女のヒールがタイルを蹴る音がしっかりと後について来ていた。

 黙々と歩を進めながら、ペテロは酷く苛立っていた。他でもない、自分自身にだ。
 優しく慰めてやることも、気の効く言葉をかけてやることもできない自分が酷く憎らしかった。
 小さな彼女の手を引いて歩く。こんなことしかできないのだ。

 服に当たる雨は徐々に少なくなってきていた。厚く重なっていた雲は所々薄れ、光の梯子が地上へとさしている。
 馬鹿ね。彼女が静かにぽつりと言葉を落とした。ペテロは振り返らなかった。小さく息を吸い込んだ彼女の声が微かに震えていたからだ。
 きっと振り返ってしまえば、彼女から感情が零れる大事な機会を奪ってしまいそうだった。


「馬鹿ね。本当に馬鹿よ、あんた」


 差し込む光の帯に、目を細める。雨は、もはやほとんど降っていなかった。
 だけれど、ペテロには確かに聞こえたのだった。

 それだけで充分すぎるのよ、そう囁いた彼女の言葉を彩るように零れる、ぱたぱたという雫の音が。
 確かに、聞こえたのだ。



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