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□淡い夢の中で、
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 いつも見慣れた彼女の指先に、とろりと淡い桃色の塗料が乗せられていく光景は、不思議と目を引き付けた。
 室内には爪に塗られた液体独特の匂いが広がっている。窓から差し込む西日に指先が、つやつやとした光沢を放っていた。

 小指の先に丁寧に刷毛を塗り終えたシスターは、満足そうに「できた」と呟いた。なんだかそれが、酷く幼さを誘う言葉で微笑ましさについユーグの口許が緩む。
 ふうと広げた十本の指に息を吐きかけた彼女は、黄昏時の空気の中に浸って熱心に桃色の塗料を眺めていた。

 綺麗だ、些か愛想に欠けるように思われた言葉にも、彼女は嬉しそうに目を細める。
 ありがとう。囁かれた言葉には恥ずかしさと嬉しさが滲んでいて、やはりいつもの彼女から考えられないくらいに幼かった。


「でも、やっぱり違和感だらけね」


 ふふ、と微笑んだまま溢された言葉にユーグは何故と視線だけで問いかけた。その視線に気付いた彼女はしかし言葉を発することなく、無言でユーグの前に自身の手を見せた。
 つい、と眼前に晒された彼女の手は女性特有の細さをしていた。
 しかしその細い手首から先の甲にも手のひらにも、果ては飾り立てたばかりの指まで幾つもの小さな裂傷が残っている。
 未熟さ故につけてしまったものが大半だと、昔彼女が苦笑しながら語った声が蘇る。


「こんな手をしているんだもの。なんだか、爪だけ普通の女の子みたいじゃない? ちぐはぐしていて何だか可笑しくって」


 伏せた睫毛の下の藍色の瞳は、言葉通りに細められていた。彼女が口にした『普通の女の子』という言葉が、胸の奥深い所に落ちていって痛いくらいに響き渡るものだから、二の句が告げなかった。
 きっと、口を開いたところで不器用な自分には彼女にかけるべき最善の言葉が見つけられないこともユーグには分かりきっていた。
 それでも、何かを言いたくて、心の中を見渡してしまう。

 いつだって落ち着いた態度を見せる彼女は、ユーグ自身もつい忘れがちになるけれど、充分に幼いはずだった。
 彼女が称する『普通の女の子』と同じように、指先を飾り立てることも着飾ることもそれこそ普通にしていたって、これぽっちも可笑しくなんかないのだ。


「そんなこと、ないだろ」


 ようやく口から出てきたのは、たったそれぽっちの言葉でしかなかった。もっと、気の効いたことを言いたかった筈なのに、苦々しい感情ばかりが口の中に広がる。
 それでも手を差し出したまま、きょとんと一度ゆっくりと瞬きをした彼女は、思いもよらず嬉しそうに表情を崩した。
 ありがとう。囁いた響きはあまりに優しく穏やかで、逆にユーグが狼狽えてしまいそうだった。


「別にね、この手になったこと後悔してるわけでも、普通の女の子になりたいわけでもないんだよ」


 強くなることを望んで、その結果として手に入れたものだもの。桃色に染まった爪が、そっと裂傷の一つをなぞる。
 声には、震えも迷いもなかった。

 指はするすると傷跡をなぞって、上へ上へと上がっていくと、もう乾いてしまった爪の表面を優しくなぜた。
 そうして、顔を上げた彼女は眉尻を下げると、あのね、と酷く楽しげに囁いた。


「昔さ、母親がしてた結婚指輪が羨ましくて、ねだったことがあったの」
「指輪を?」
「うん、なんの石だったかは忘れちゃったんだけど、ピンクの小さな石の指輪だったんだよ」


 封を切ったばかりなのだろう、中身の充分に残ったマニュキュアの小瓶を指の間で遊ばせるようにして揺らす。
 独特の粘性の液体は、瓶が左に揺れれば左に、右に揺れれば右にたぷりと傾いた。


「流石に母親もあげるわけにはいかないから、代わりに同じ色のマニュキュアを塗ってもらったの」


 それと同じ色なんだよ、これ。そう言って、テーブルの上に小瓶を置いた。
 瓶の丸みをなぞる指先は中身と同じ色をしていて、当たり前なことなのにどうしてかそこから目をはなせなかった。


「その時、すっごく嬉しくてさ。大人になったらこのマニュキュアをつけて、大事な人と手を繋いで歩きたいなぁ、なんて夢見てたのよ。……そんなこと、思い出したら衝動買いしちゃって」


 存外、元々はロマンチストなのかもね。そう言って、彼女は恥ずかしそうに少しだけ頬を赤らめた。
 『普通の女の子』になることが当たり前だと思っていたその頃の夢を口にするのは抵抗があるのか、彼女は片手で顔を覆うと首を横に振った。


「あー、やっぱり恥ずかしいな。ごめん、今の聞かなかったことにして」
「何故?」
「や、あまりに夢見すぎで可笑しなこと言ってしまったからさ」


 はは、と笑って手を振った、その彼女の細い手首をユーグは掴んだ。
 伝えたいことは胸の内に渦巻いて、上手く一つにまとまってくれない。それでも、口を開かずにはいられなかった。


「少しも、可笑しくなんてないだろ。どこに君がそれを夢見ては、願ってはいけない理由があるんだ」


 確かに、今の彼女の立場は普通とはかけ離れていた。しかし、それでもユーグは彼女のそれを可笑しいなどと思えなかった。
 今一度、絞り出すようにどこも可笑しくないと繰り返す。
 元から大きな瞳を更に大きく開いた彼女は、暫く言葉を探すように黙り込んだ。

 震える唇を開いて漸く囁かれたのは、やはりありがとうという五文字で、言ってから彼女は「なんだか今日はユーグにお礼を言ってばかりね」と微笑んだ。
 そうして、お願いがあるの、そう言って差し出された手に、俺でよければ喜んでとユーグは指を絡ませた。



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